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野間大坊の「義朝廟」
野間大坊を初めて訪れたのは私が小学校を卒業した春休み、先生2人と同級生15人ほどでサイクリングした時である。亀崎から内海までの、かなりの遠出であった。知多半島中央部の、アップダウンの多い道を自転車で走った覚えがある。もう60年近い大昔!のこと。
その後何度もこの寺を訪れているが、その印象は初めてのときと少しも変わっていない。源頼朝建立ともいわれる大門だが、両袖に塀がないため孤立したイメージである。入母屋造りの本堂も、宝暦4年(1754)建築と古い造りだが、前面に石畳などがないためか何となくシックリした感じがない。全体の伽藍としてのまとまりが欠けているような気がする。

印象深いのは「義朝の廟」である。石垣に挟まれた小さな門の向こうに多宝塔型の石塔が見え、その周囲にびっしり木刀が積まれている。下の方には古く朽ちかけたものもあり、表面にはまだ新しい木肌を見せるものもある。
平治元年(1159)、「平治の乱」に敗れて知多半島まで逃れてきた源義朝(頼朝や義経の父)は、縁者のもとに身を寄せたが、裏切りに遭い湯殿で殺されてしまった。この時義朝は“我に木太刀の一本なりともあれば”と無念を叫んだという。この故事から、後の人々が木刀をささげ続けているのである。

その後何度もこの寺を訪れているが、その印象は初めてのときと少しも変わっていない。源頼朝建立ともいわれる大門だが、両袖に塀がないため孤立したイメージである。入母屋造りの本堂も、宝暦4年(1754)建築と古い造りだが、前面に石畳などがないためか何となくシックリした感じがない。全体の伽藍としてのまとまりが欠けているような気がする。

印象深いのは「義朝の廟」である。石垣に挟まれた小さな門の向こうに多宝塔型の石塔が見え、その周囲にびっしり木刀が積まれている。下の方には古く朽ちかけたものもあり、表面にはまだ新しい木肌を見せるものもある。
平治元年(1159)、「平治の乱」に敗れて知多半島まで逃れてきた源義朝(頼朝や義経の父)は、縁者のもとに身を寄せたが、裏切りに遭い湯殿で殺されてしまった。この時義朝は“我に木太刀の一本なりともあれば”と無念を叫んだという。この故事から、後の人々が木刀をささげ続けているのである。

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