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岩倉城址と山内一豊生誕地
岩倉駅の南東、五条川の畔に「岩倉城址」がある。この城は織田伊勢守の居城で、信長により落城させられる永禄2年(1559)までの80年間、尾張上半国支配の拠点であった。現在は「岩倉城址」と「織田伊勢守城址」の2つの碑が立つのみである。
岩倉城主の中でも最も活躍した織田信安夫妻の墓が下本町の誓願寺に建てられている。この墓碑は、元は信安の子孫が名古屋市東区の含笑寺に建立したものであるが、戦後の区画整理により平和公園に移されていた。昭和39年になって、夫妻ゆかりのこの地に移設されたものである。

岩倉城址のすぐ北に神明生田神社がある。本殿と拝殿があり、その左隣に背の高い建物が建っている。中には中本町の山車が格納されている。本殿に向かって右側、こんもりと茂った樹林の中に「山内一豊生誕地」の記念碑が立っている。一豊は、この地で生まれ育っている。
山内一豊は、本人よりもむしろ“その妻”の方が有名である。一豊は信長に仕えたのち秀吉の家臣となり、小牧・長久手の戦いなどに参軍している。関ヶ原合戦では東軍につき、土佐一国20万石の領主となった。一豊の出世のために尽くした妻・千代の逸話は、第二次世界大戦以前の日本において、賢妻のモデルとして高等女学校の教育に採用され、広く人の知るところとなった

岩倉城主の中でも最も活躍した織田信安夫妻の墓が下本町の誓願寺に建てられている。この墓碑は、元は信安の子孫が名古屋市東区の含笑寺に建立したものであるが、戦後の区画整理により平和公園に移されていた。昭和39年になって、夫妻ゆかりのこの地に移設されたものである。

岩倉城址のすぐ北に神明生田神社がある。本殿と拝殿があり、その左隣に背の高い建物が建っている。中には中本町の山車が格納されている。本殿に向かって右側、こんもりと茂った樹林の中に「山内一豊生誕地」の記念碑が立っている。一豊は、この地で生まれ育っている。
山内一豊は、本人よりもむしろ“その妻”の方が有名である。一豊は信長に仕えたのち秀吉の家臣となり、小牧・長久手の戦いなどに参軍している。関ヶ原合戦では東軍につき、土佐一国20万石の領主となった。一豊の出世のために尽くした妻・千代の逸話は、第二次世界大戦以前の日本において、賢妻のモデルとして高等女学校の教育に採用され、広く人の知るところとなった

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