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大鹿村「三六災害」の傷跡
先回の「中央構造線博物館」の写真をもう一度見ていただきたい。後方に写る大西山の山肌が、大きく崩れたまま赤茶けた状態に見て取れる。「三六災害」、昭和36年(1961)6月下旬に信州伊那谷を襲った集中豪雨の傷跡である。60年経った今も、崩落跡には一木一草生えていない。
降雨量は523mm、各地で山津波崩落を起こし、多くの家屋・田畑・人命に被害を及ぼした。特にこの大鹿村では、大西山(1741m)で前代未聞の大崩落(山体崩壊=トップリングという)が発生し、川沿いの集落を飲み込んでしまった。土砂の勢いは対岸にも及び、合わせて40戸の住宅と42人の命を奪ったのである。

20年ほど前、桜の時季に一度訪れたことがある。崩落した土砂がなだらかな丘を形成しており、その上が公園となって一面に桜が咲いていた。堆積土砂の量は、354万㎥と計測されており、取り除くことは不可能であろう。地下深く眠る人々の上に、鎮魂の意味を込めて桜を植えたのである。
未だ剥き出しになったままの岩肌を背景に、観音像が立っている。平成3年(1991)に、被災30周年を記念して、村民有志が建立したものである。近年、一日500mm、時間100mmといった豪雨が各地で頻発している。このような悲惨な災害が、再び起きないことを祈るばかりである。

降雨量は523mm、各地で山津波崩落を起こし、多くの家屋・田畑・人命に被害を及ぼした。特にこの大鹿村では、大西山(1741m)で前代未聞の大崩落(山体崩壊=トップリングという)が発生し、川沿いの集落を飲み込んでしまった。土砂の勢いは対岸にも及び、合わせて40戸の住宅と42人の命を奪ったのである。

20年ほど前、桜の時季に一度訪れたことがある。崩落した土砂がなだらかな丘を形成しており、その上が公園となって一面に桜が咲いていた。堆積土砂の量は、354万㎥と計測されており、取り除くことは不可能であろう。地下深く眠る人々の上に、鎮魂の意味を込めて桜を植えたのである。
未だ剥き出しになったままの岩肌を背景に、観音像が立っている。平成3年(1991)に、被災30周年を記念して、村民有志が建立したものである。近年、一日500mm、時間100mmといった豪雨が各地で頻発している。このような悲惨な災害が、再び起きないことを祈るばかりである。

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