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立田輪中悪水樋門
木曽・長良・揖斐三川の最下流部は、流路が安定せず絶えず河道が変化していました。上流から流れてきた土砂が堆積しているところは自然堤防といい、人々はそこで耕作を始めました。古くは平安時代(今から1200年前ごろ)から始まったといいます。
しかし絶えず水害に見舞われるため、集落を堤防で囲む「輪中」を造りました。輪中の内部にたまる生活排水のことを「悪水」と呼びます。輪中の上流部には、水を取り入れる「用水杁」を、下流部には悪水を排出するための「排水杁」が設けられました。「杁」とは、水門のことです。

「立田輪中悪水樋門」は、そうした排水のために明治34年(1901)に完成しました。干潮時に水位が下がるのを利用して鍋田川に排水する仕組みでしたが、入る水の方が多くて当初の役割を果たしませんでした。そこで、全国的にも珍しい取水のための、「逆潮用水樋門」として使われるようになりました。
その後、鍋田川の川底が上がり、水中塩分が多くなったことから取水もできなくなってしまいました。今は、産業遺産として公園内に保存されています。上流側(上の写真)には水門があり、上部に「明治三十四年竣工」の文字が、下流側(下の写真)には「立田輪中悪水樋門」の文字が刻まれています。
しかし絶えず水害に見舞われるため、集落を堤防で囲む「輪中」を造りました。輪中の内部にたまる生活排水のことを「悪水」と呼びます。輪中の上流部には、水を取り入れる「用水杁」を、下流部には悪水を排出するための「排水杁」が設けられました。「杁」とは、水門のことです。

「立田輪中悪水樋門」は、そうした排水のために明治34年(1901)に完成しました。干潮時に水位が下がるのを利用して鍋田川に排水する仕組みでしたが、入る水の方が多くて当初の役割を果たしませんでした。そこで、全国的にも珍しい取水のための、「逆潮用水樋門」として使われるようになりました。
その後、鍋田川の川底が上がり、水中塩分が多くなったことから取水もできなくなってしまいました。今は、産業遺産として公園内に保存されています。上流側(上の写真)には水門があり、上部に「明治三十四年竣工」の文字が、下流側(下の写真)には「立田輪中悪水樋門」の文字が刻まれています。
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