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東海市の「今川義基墳」
「桶狭間の戦い」で非業の死を遂げた今川義元には、愛知県内に6か所の墓(供養塔を含む)があるという。①合戦の跡地といわれる名古屋市緑区の「桶狭間公園」 ②こちらこそ合戦地と主張する豊明市の「古戦場公園」 ③西尾市東向寺の「首塚」 ④豊川市大聖寺の「胴塚」 ⑤清須市の「今川塚」 ⑥そして東海市の「供養塔」である。
東海市の供養塔は横須賀小学校の近く、今川集会所に併設する形になっている。格子戸の中に、「復元」との看板はあるが五輪塔のような供養塔がある。お堂の片隅にある常夜灯の柱と思われる石には、「今川義基墳」と刻まれている。

言い伝えによれば、永禄3年(1560)桶狭間の合戦に敗れた今川軍の兵たちは、義元公の遺体を抱えてこの地まで逃げ延びてきた。そして、この近くにあった「永昌寺」(今は無い)に殿様を葬ったという。兵の一部は供養のため、この村に住みついたとの伝承も残っている。
この塚の存在は、江戸時代の絵地図にも書き残されている。石碑の文字が「義元」でなく「義基」となっているのは、敵に見つかるのを防ぐためだったと伝えられている。地域では「今川さん」の名で親しまれていて、花が絶えず供えられている。
東海市の供養塔は横須賀小学校の近く、今川集会所に併設する形になっている。格子戸の中に、「復元」との看板はあるが五輪塔のような供養塔がある。お堂の片隅にある常夜灯の柱と思われる石には、「今川義基墳」と刻まれている。

言い伝えによれば、永禄3年(1560)桶狭間の合戦に敗れた今川軍の兵たちは、義元公の遺体を抱えてこの地まで逃げ延びてきた。そして、この近くにあった「永昌寺」(今は無い)に殿様を葬ったという。兵の一部は供養のため、この村に住みついたとの伝承も残っている。
この塚の存在は、江戸時代の絵地図にも書き残されている。石碑の文字が「義元」でなく「義基」となっているのは、敵に見つかるのを防ぐためだったと伝えられている。地域では「今川さん」の名で親しまれていて、花が絶えず供えられている。
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