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旧大山田村の「辻堂古墳」
せせらぎ運動公園を少し上流へ上った旧大山田村(現伊賀市)に「辻堂古墳」がある。元々は、径20mほどの円墳あるいは前方後円墳だったと思われるが、今は、土盛りが取り払われ、さらに天井板も持ち去られて横穴式の石室が剥き出しになっている。玄室の奥には、2つの石棺が残っている。
床面全体に湿気を防ぐための敷石を並べ、羨道部には排水溝を備えている。出土した土器については、二つの時期があると考えられている。第一次の埋葬は6世紀後半、第二次は7世紀後半である。5m近くある石室から考えると、被葬者の家系はこの地域の有力な豪族だったと思われている。

「辻堂古墳」と呼ぶのは、水路と農道を挟んだ向かい側にお地蔵さんの入る「辻堂」があるからであろう。お堂の前に大きくて平たい石が据えられているが、形から見て玄室の蓋だったのでないかと思われる。ちなみに「辻」とは道路の交差するところをいう。
お堂の軒下に、石地蔵尊についての由来が杉板に記してある。古い文体だし文字も薄れているので判読しづらいが次のように読める。“長年の洪水の影響で、用水路の線形を変えるために「塚」の移動をしたところ祟りがあった。卜者が言うのにお堂を建立すればよいというので一宇建立した”“当初は藁葺きであったが、宝暦12年(1762)瓦葺きに再建した”


床面全体に湿気を防ぐための敷石を並べ、羨道部には排水溝を備えている。出土した土器については、二つの時期があると考えられている。第一次の埋葬は6世紀後半、第二次は7世紀後半である。5m近くある石室から考えると、被葬者の家系はこの地域の有力な豪族だったと思われている。

「辻堂古墳」と呼ぶのは、水路と農道を挟んだ向かい側にお地蔵さんの入る「辻堂」があるからであろう。お堂の前に大きくて平たい石が据えられているが、形から見て玄室の蓋だったのでないかと思われる。ちなみに「辻」とは道路の交差するところをいう。
お堂の軒下に、石地蔵尊についての由来が杉板に記してある。古い文体だし文字も薄れているので判読しづらいが次のように読める。“長年の洪水の影響で、用水路の線形を変えるために「塚」の移動をしたところ祟りがあった。卜者が言うのにお堂を建立すればよいというので一宇建立した”“当初は藁葺きであったが、宝暦12年(1762)瓦葺きに再建した”


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