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松尾芭蕉 生誕の家
松尾芭蕉は寛永21年(正保元年=1644)に、この伊賀上野の地で生まれた。伊賀鉄道上野市駅から東へ500mほどの所に、その生家が残っている。格子窓のある二階建て、切妻瓦葺屋根の町屋造りである。黄土色で瓦の乗る土塀が長くて印象的、玄関口には石柱と歌碑が立っていた。
残念ながら現在、建物改修のため中へ入ることはできなかった。門から覗き込むと、玄関前の庭にバショウの木が植えてある。芭蕉が江戸に住んだとき深川に居を構えたが、門人からバショウの木を贈られたのでその庵を「芭蕉庵」と名付けた。さらに自身も「芭蕉」と号するようになった。

芭蕉は、滑稽や諧謔を主としていた「俳諧」に疑問をもち、「蕉風」と呼ばれる芸術性の高い句風を確立した。後世には、「俳聖」と呼ばれるまでになった。現在公園となっている上野城の一角に、生誕300年記念の「俳聖殿」が建っている。芭蕉の旅姿をイメージした個性的な建物である。
元禄2年(1689)、45歳になった芭蕉は弟子の曾良を伴い「おくの細道」の旅に出る。陸奥・越後・越前などを巡り、最後は大垣で旅を終える。我々も知る数々の名句が生まれた。生家前の句碑は「古里や臍の緒に泣く年の暮れ」とある。自分が生まれた時の「臍の緒」を見た感懐を詠んでいる。

残念ながら現在、建物改修のため中へ入ることはできなかった。門から覗き込むと、玄関前の庭にバショウの木が植えてある。芭蕉が江戸に住んだとき深川に居を構えたが、門人からバショウの木を贈られたのでその庵を「芭蕉庵」と名付けた。さらに自身も「芭蕉」と号するようになった。

芭蕉は、滑稽や諧謔を主としていた「俳諧」に疑問をもち、「蕉風」と呼ばれる芸術性の高い句風を確立した。後世には、「俳聖」と呼ばれるまでになった。現在公園となっている上野城の一角に、生誕300年記念の「俳聖殿」が建っている。芭蕉の旅姿をイメージした個性的な建物である。
元禄2年(1689)、45歳になった芭蕉は弟子の曾良を伴い「おくの細道」の旅に出る。陸奥・越後・越前などを巡り、最後は大垣で旅を終える。我々も知る数々の名句が生まれた。生家前の句碑は「古里や臍の緒に泣く年の暮れ」とある。自分が生まれた時の「臍の緒」を見た感懐を詠んでいる。

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