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閑話「古墳」その3
4世紀から6世紀のわずか300年ほどの間に、16万基もの古墳が生まれるのである。ヤマト朝廷に係るものが900基、残りは各地に割拠した豪族(農民でなく武人であろう)の墓である。これをどう考えたらいいのだろうか?弥生の民の次に渡って来たのはどんな人たちだったのか?
日本の一部の人たち(または多くの人たち)は、“日本列島の原住民が大陸から伝わった文化を取り入れて、土器も変えたし食料もお米に変えた”という考え方をもっている。確かに縄文時代人が弥生人と交流する中で、新しい生活様式を取り入れたりしたことはあったであろう。混血もしたと思う。

しかし、生活を根底から変えるような文化の進歩は、人の移動なしにはあり得ないのである。例えば、それまで「甕棺」を使用していた死者を葬る方法に、突然「前方後円墳」などの古墳方式を取り入れるだろうか。文化だけの伝搬ではなく、そういう文化をもつ人々が渡来したと考えた方が理に叶っている。
ここからは私の勝手な古代史観・・・古墳時代は、大陸を追われた部族が次から次へと日本に渡って来た時代である。大きな集団も小さな集団もあったことだろう。各地に分かれて、先住の弥生の民(稲作農民)を支配して、その地の豪族となった。山住みの縄文人・平野の弥生人・支配階級の武人、3層構造が「古墳時代」だと思う。古墳をつくったのは支配階級の人たちである。

そこへ、かぶさるように大物の部族がやってきた。「天孫族」である。この集団は大陸でも有力な「国」で、魏・呉・蜀に匹敵するような大国(例えば「越」とか「楚」クラス)だったと思う。やはり九州(高千穂)に降臨し、勢力を蓄えたあと東へ侵攻する(神武天皇の東征)。出雲から「国譲り」を受け、畿内の豪族と戦って勝利する。
ヤマト朝廷の成立である。その後は、古事記に登場する「天照大神」「須佐之男命」「倭建命」の挿話のような経過を経て、日本全土を統治するようになったのである。16万基もの古墳があることを知り、その理由を考えるうちに妄想のような話になりました。「古代史ロマン」と考えてお許しください。
日本の一部の人たち(または多くの人たち)は、“日本列島の原住民が大陸から伝わった文化を取り入れて、土器も変えたし食料もお米に変えた”という考え方をもっている。確かに縄文時代人が弥生人と交流する中で、新しい生活様式を取り入れたりしたことはあったであろう。混血もしたと思う。

しかし、生活を根底から変えるような文化の進歩は、人の移動なしにはあり得ないのである。例えば、それまで「甕棺」を使用していた死者を葬る方法に、突然「前方後円墳」などの古墳方式を取り入れるだろうか。文化だけの伝搬ではなく、そういう文化をもつ人々が渡来したと考えた方が理に叶っている。
ここからは私の勝手な古代史観・・・古墳時代は、大陸を追われた部族が次から次へと日本に渡って来た時代である。大きな集団も小さな集団もあったことだろう。各地に分かれて、先住の弥生の民(稲作農民)を支配して、その地の豪族となった。山住みの縄文人・平野の弥生人・支配階級の武人、3層構造が「古墳時代」だと思う。古墳をつくったのは支配階級の人たちである。

そこへ、かぶさるように大物の部族がやってきた。「天孫族」である。この集団は大陸でも有力な「国」で、魏・呉・蜀に匹敵するような大国(例えば「越」とか「楚」クラス)だったと思う。やはり九州(高千穂)に降臨し、勢力を蓄えたあと東へ侵攻する(神武天皇の東征)。出雲から「国譲り」を受け、畿内の豪族と戦って勝利する。
ヤマト朝廷の成立である。その後は、古事記に登場する「天照大神」「須佐之男命」「倭建命」の挿話のような経過を経て、日本全土を統治するようになったのである。16万基もの古墳があることを知り、その理由を考えるうちに妄想のような話になりました。「古代史ロマン」と考えてお許しください。
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