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豊橋市「二川宿の枡形」
古来より交通の要衝であった二川(ふたがわ)は、慶長6年(1601)に江戸幕府により宿駅と定められた。開設当初は二川村と大岩村の二か村で業務を行っていたが、正保元年(1644)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、二川宿と加宿大岩として再構成した。
二川宿は、江戸から数えて33番目の宿場町である。東の白須賀宿からは1里17町(約5.8km)西の吉田宿(豊橋)とは1里20町離れている。宿場の長さは12町16間(約1.3km)、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒あったという。天保14年(1843)の記録による。

中央近くの本陣を挟んで、東西2か所に「枡形」がある。枡形とは、お城の門と門の間にある方形の広場のこと。出陣のときに兵が集まるところであり、侵入した敵の動きを妨げる効果もある。宿場町の枡形も、道を屈曲させて見通しを妨げる効果はあるが、方形ではないので「鍵の手」と呼んだ方がいいと思う。
二川宿では、「鍵の手」の痕跡が2か所とも見事に残っている。さすがに車の通行のため曲線になってはいるが、あきらかに鍵の手である。古い絵地図にも描かれている「高札」(矢印)の跡もある。高札とは、法令を板面に記して、往来に掲示したものである。ここでは跡を示す石碑が立っている。
この二川宿は5年前にも訪れたことがあり、「本陣」(2015・09・13)「旅籠と商家」(同09・19)としてブログを発信しましたので見てください。
二川宿は、江戸から数えて33番目の宿場町である。東の白須賀宿からは1里17町(約5.8km)西の吉田宿(豊橋)とは1里20町離れている。宿場の長さは12町16間(約1.3km)、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒あったという。天保14年(1843)の記録による。

中央近くの本陣を挟んで、東西2か所に「枡形」がある。枡形とは、お城の門と門の間にある方形の広場のこと。出陣のときに兵が集まるところであり、侵入した敵の動きを妨げる効果もある。宿場町の枡形も、道を屈曲させて見通しを妨げる効果はあるが、方形ではないので「鍵の手」と呼んだ方がいいと思う。
二川宿では、「鍵の手」の痕跡が2か所とも見事に残っている。さすがに車の通行のため曲線になってはいるが、あきらかに鍵の手である。古い絵地図にも描かれている「高札」(矢印)の跡もある。高札とは、法令を板面に記して、往来に掲示したものである。ここでは跡を示す石碑が立っている。
この二川宿は5年前にも訪れたことがあり、「本陣」(2015・09・13)「旅籠と商家」(同09・19)としてブログを発信しましたので見てください。
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