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潮岬の灯台
ペリーが黒船で来航した翌年の安政元年 (1854) 年に、日本はアメリカと 「日米和親条約」 を締結した。200年を越える鎖国から醒めて開国したのである。その12年後の慶応2年には、米・英・仏およびオランダとの間に 「改税条約 (江戸条約) 」 が結ばれたが、その中に8か所の灯台を整備することが決められている。観音埼・野島埼・樫野埼・神子元島・剱埼・伊王島・佐多岬そして潮岬である。
潮岬の灯台は、機材到着の遅れなどもあり、この中では最も遅くに完成した。明治6年のことである。当初は木造8角形の建物であったが、明治11年に現在見るような石造りの塔に改造された。海面から30mの断崖の上に立つ、高さ22mの白亜の灯台である。

紀伊国屋文左衛門が、苦難の末に江戸まで荷物を運んだという物語が残っているように、紀伊半島南端の潮岬の沖は、船の航行の難所である。諸外国としても日本と交易するには、どうしても安全のための灯台が欲しかったのであろう。
黒潮が洗う荒々しい岩壁には、ツワブキ・ハマウドなどの草本やトベラ・ヤブツバキといった常緑の広葉樹がへばりついたように生育している。いずれも暖地性の植物であるが、その中に野生のウチワサボテンが生えていた。たぶん栽培されていたものが逃げ出したのであろう。

潮岬の灯台は、機材到着の遅れなどもあり、この中では最も遅くに完成した。明治6年のことである。当初は木造8角形の建物であったが、明治11年に現在見るような石造りの塔に改造された。海面から30mの断崖の上に立つ、高さ22mの白亜の灯台である。

紀伊国屋文左衛門が、苦難の末に江戸まで荷物を運んだという物語が残っているように、紀伊半島南端の潮岬の沖は、船の航行の難所である。諸外国としても日本と交易するには、どうしても安全のための灯台が欲しかったのであろう。
黒潮が洗う荒々しい岩壁には、ツワブキ・ハマウドなどの草本やトベラ・ヤブツバキといった常緑の広葉樹がへばりついたように生育している。いずれも暖地性の植物であるが、その中に野生のウチワサボテンが生えていた。たぶん栽培されていたものが逃げ出したのであろう。

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