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大垣城
関ヶ原の戦いはつとに有名であるが、その前哨戦ともいうべき杭瀬川の戦いや大垣城の攻防はあまり知られていない。関ヶ原の入り口ともいえる大垣の地は、東軍・西軍の勝敗を分ける拠点となる場所である。石田三成はこの城に入城して西軍の本拠とし、全軍の集まるのを待ったのである。
しかし、東軍・徳川家康の進出があまりにも早かったため、西軍の動揺は大きく三成は西に後退して関ヶ原に陣を敷くこととなった。その後の戦況は大河ドラマなどに見るとおりである。それほど大垣城は重要な地点であり、4重の堀をもつ堅固な要塞であった。

関ヶ原の合戦の後の大垣城は、「戦いの城」から「行政の城」に転換した。寛永12年(1635)に入封した戸田氏初代の氏鉄(うじかね)は治山・治水に力を入れるなど、人間味あふれる施策を行ったという。以来、明治になって版籍奉還するまで、戸田氏の治世が続くこととなる。
天守閣は、明治になった後も破却されることなく残存し、昭和11年には国宝に指定された。しかし残念なことに、戦災により焼失してしまった。現在の建物は、昭和34年に外観復元されたものである。西門近くの広場に、天守閣を背景とした氏鉄の騎馬像が立っている。やはり戸田氏初代の英雄像は、この城に似合っていると思う。
しかし、東軍・徳川家康の進出があまりにも早かったため、西軍の動揺は大きく三成は西に後退して関ヶ原に陣を敷くこととなった。その後の戦況は大河ドラマなどに見るとおりである。それほど大垣城は重要な地点であり、4重の堀をもつ堅固な要塞であった。

関ヶ原の合戦の後の大垣城は、「戦いの城」から「行政の城」に転換した。寛永12年(1635)に入封した戸田氏初代の氏鉄(うじかね)は治山・治水に力を入れるなど、人間味あふれる施策を行ったという。以来、明治になって版籍奉還するまで、戸田氏の治世が続くこととなる。
天守閣は、明治になった後も破却されることなく残存し、昭和11年には国宝に指定された。しかし残念なことに、戦災により焼失してしまった。現在の建物は、昭和34年に外観復元されたものである。西門近くの広場に、天守閣を背景とした氏鉄の騎馬像が立っている。やはり戸田氏初代の英雄像は、この城に似合っていると思う。
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