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大垣城石垣「大洪水点」の刻み
大垣の地は、揖斐川が運んできた砂礫が堆積した地形である。扇状地のようでもあり、かつて濃尾平野が海であった時代には三角州であったかも知れない。とにかく水の豊富な町であり、各所に湧水や自噴井戸がある。また大垣城の水堀も含めて、川や水路の多い町でもある。
大垣城の天守閣石垣の角に「刻み線」の入った石がある。「点水洪大」と文字も刻まれている。大正時代に記されているので、右から読んで「大洪水点」の意味である。手前に石碑も立っていて、「明治二十九年大洪水点」とある。建てられたのは大正12年になってからである。

過去に大洪水が何度もあった。戸田氏鉄公治世の慶安3年(1650)に大雨による大被害が出た。城の上から見ると、岐阜から養老まで一面の海であったという。氏鉄は、山の植林や乱伐禁止などの治山にも努めたという。
慶安以上の大水害は明治29年に発生した。その時の水位が石垣に刻まれた目印である。後世の人たちに、二度と悲惨な目に遭ってほしくないとの思いであろう。東北の津波到達点も含めて全国に、災害の記録を残す石碑などが数多く残っているという。先人の教えを、自分の防災に活かす知恵が必要と思う。

大垣城の天守閣石垣の角に「刻み線」の入った石がある。「点水洪大」と文字も刻まれている。大正時代に記されているので、右から読んで「大洪水点」の意味である。手前に石碑も立っていて、「明治二十九年大洪水点」とある。建てられたのは大正12年になってからである。

過去に大洪水が何度もあった。戸田氏鉄公治世の慶安3年(1650)に大雨による大被害が出た。城の上から見ると、岐阜から養老まで一面の海であったという。氏鉄は、山の植林や乱伐禁止などの治山にも努めたという。
慶安以上の大水害は明治29年に発生した。その時の水位が石垣に刻まれた目印である。後世の人たちに、二度と悲惨な目に遭ってほしくないとの思いであろう。東北の津波到達点も含めて全国に、災害の記録を残す石碑などが数多く残っているという。先人の教えを、自分の防災に活かす知恵が必要と思う。

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