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熱田湊の「東浜御殿」
東海道唯一の海路「七里の渡し」は、宮宿(熱田湊)と桑名宿を結んでいる。熱田湊には、熱田神宮の一の鳥居が、桑名湊には伊勢神宮の一の鳥居が立っていた。京からの旅人は、鳥居をくぐって熱田神宮を参詣し、江戸からの伊勢詣客は、桑名から伊勢へと向かったのであろう。
熱田湊の辺りは、今は「歴史公園・宮の渡し公園」になっている。ここには、昔ながらの「常夜灯」が残っており、新たに「時の鐘」も整備されている。しかし、この地に尾張藩の「東浜御殿」があったことを示す遺跡は残っていない。ところが最近、御殿の石垣の巨石が白鳥小学校にあるとの報道があった。(7月27日中日新聞朝刊)

東浜御殿は、寛永元年(1624)に尾張初代藩主・義直が造営したものという。東海道を往来する公家や大名を供応するためともいうが、京へ上る将軍の宿泊のためであり、江戸時代を通じて泊まったのは三代将軍・家光ただ一人ともいわれている。あの壮大な本丸御殿が、将軍だけの宿泊所だったことを考え合わせれば、さもありなんと思ってしまう。
その位置は、現在の公園に接する新堀川の水中であると考えられる。そのよすがは、古い絵図や浮世絵に残っている。上の図は、「名古屋并熱田図(なごやならびにあつたず)」(徳川美術館蔵)の部分である。下の絵は、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の「宮」、手前に御殿の様子が描かれている。


熱田湊の辺りは、今は「歴史公園・宮の渡し公園」になっている。ここには、昔ながらの「常夜灯」が残っており、新たに「時の鐘」も整備されている。しかし、この地に尾張藩の「東浜御殿」があったことを示す遺跡は残っていない。ところが最近、御殿の石垣の巨石が白鳥小学校にあるとの報道があった。(7月27日中日新聞朝刊)

東浜御殿は、寛永元年(1624)に尾張初代藩主・義直が造営したものという。東海道を往来する公家や大名を供応するためともいうが、京へ上る将軍の宿泊のためであり、江戸時代を通じて泊まったのは三代将軍・家光ただ一人ともいわれている。あの壮大な本丸御殿が、将軍だけの宿泊所だったことを考え合わせれば、さもありなんと思ってしまう。
その位置は、現在の公園に接する新堀川の水中であると考えられる。そのよすがは、古い絵図や浮世絵に残っている。上の図は、「名古屋并熱田図(なごやならびにあつたず)」(徳川美術館蔵)の部分である。下の絵は、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の「宮」、手前に御殿の様子が描かれている。


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