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奈良興福寺
猿沢の池から眺める興福寺・五重の塔は観光ポスターや旅行雑誌でお馴染みである。興福寺から山続きに連なる東大寺や春日大社を含め、奈良観光のハイライトと言える。旅館の勧めでタクシーをチャーターし、ライトアップされたこの界隈を廻ったことがある。
興福寺は、藤原氏の祖・鎌足と不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺として絶大な権力を誇った。奈良時代には四大寺、平安時代には南都七大寺に数えられていた。隣接する春日大社(藤原氏の氏神様)も含めて広大な面積を支配していた。

時代が下って明治初頭に出された神仏分離令により、興福寺は大打撃を被ってしまう。春日大社と一体になって(神仏習合)行われていた信仰が禁止され、廃仏希釈(仏像などを焼捨てる)が行われたのである。有名な「阿修羅像」(国宝)は何とか助かったが、もし失われていたと思うとゾッとする。
南円堂も、猿沢の池から坂を登ったところに聳えている。本瓦葺、柱や梁が朱に塗られた八角円堂である。創建は弘仁4年(813)、度々の火災により消失と再建を繰り返した。現存のものは寛政元年(1789)に再建された4代目である。昭和61年に重要文化財に指定されている。

興福寺は、藤原氏の祖・鎌足と不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺として絶大な権力を誇った。奈良時代には四大寺、平安時代には南都七大寺に数えられていた。隣接する春日大社(藤原氏の氏神様)も含めて広大な面積を支配していた。

時代が下って明治初頭に出された神仏分離令により、興福寺は大打撃を被ってしまう。春日大社と一体になって(神仏習合)行われていた信仰が禁止され、廃仏希釈(仏像などを焼捨てる)が行われたのである。有名な「阿修羅像」(国宝)は何とか助かったが、もし失われていたと思うとゾッとする。
南円堂も、猿沢の池から坂を登ったところに聳えている。本瓦葺、柱や梁が朱に塗られた八角円堂である。創建は弘仁4年(813)、度々の火災により消失と再建を繰り返した。現存のものは寛政元年(1789)に再建された4代目である。昭和61年に重要文化財に指定されている。

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