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飛鳥の古宮と大和盆地
飛鳥の里を自転車で走り廻ったことがある。一番の目的は、「大化の改新」に関わる古跡を見ることであった。甘樫の丘に登り、飛鳥川沿いの集落や法興寺(今は飛鳥寺)などを見た。その中に、2つの古宮遺跡があった。「小墾田の宮」と「板葺の宮」である。
「小墾田の宮」は、推古天皇(在位593~628)の宮殿があったと推定されている。田圃の中に説明看板と1本の松の木があった。遣隋使の派遣や隋使来訪時の歓待が行われたという。
「板葺の宮」は、東西156m、南北197mの掘立柱列で囲われた区画があったという。区画の北側にあった高床式の大きな建物と大井戸が検出され、復元されていた。この宮殿が、「乙巳の変」(蘇我入鹿殺害)の舞台となったところである。

大和盆地(奈良盆地)は、北に平城京(奈良:710~794)、南に飛鳥がある。東に石上神社から三輪山にかけての山々、西には矢田丘陵・生駒山地、葛城山系が連なっている。飛鳥川をはじめとする小河川が掌状に集って1つの流れになり、大坂湾へと流れていく。
古代の大和王権にとっては、恰好の都だったのであろう。広大な水田からの恵みを背景とし、瀬戸内海からの交通の便もあり、山々に囲まれて外敵からの防御にも適している。いくつかの宮殿を転々としたが、平安京(京都:794)に遷都するまで、都であり続けた。

◆◆いろいろな資料をもとに作図したオリジナルです。苦心の作です。◆◆
「小墾田の宮」は、推古天皇(在位593~628)の宮殿があったと推定されている。田圃の中に説明看板と1本の松の木があった。遣隋使の派遣や隋使来訪時の歓待が行われたという。
「板葺の宮」は、東西156m、南北197mの掘立柱列で囲われた区画があったという。区画の北側にあった高床式の大きな建物と大井戸が検出され、復元されていた。この宮殿が、「乙巳の変」(蘇我入鹿殺害)の舞台となったところである。

大和盆地(奈良盆地)は、北に平城京(奈良:710~794)、南に飛鳥がある。東に石上神社から三輪山にかけての山々、西には矢田丘陵・生駒山地、葛城山系が連なっている。飛鳥川をはじめとする小河川が掌状に集って1つの流れになり、大坂湾へと流れていく。
古代の大和王権にとっては、恰好の都だったのであろう。広大な水田からの恵みを背景とし、瀬戸内海からの交通の便もあり、山々に囲まれて外敵からの防御にも適している。いくつかの宮殿を転々としたが、平安京(京都:794)に遷都するまで、都であり続けた。

◆◆いろいろな資料をもとに作図したオリジナルです。苦心の作です。◆◆
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