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定光寺「源敬公(徳川義直)廟」
尾張初代藩主 「徳川義直」 は家康の9男として、関が原の戦いの年 (1600) に生まれた。義直は大御所・家康のお膝元駿府城で、武芸・学問を嗜む聡明な子供に育ったという。1607年に尾張国清洲藩主となり、1616年には新築 (1610年清洲越し) された名古屋城に入った。
1650年に没した義直の墓地は、定光寺東北の山上に造営された。1651年に円形の墳墓と石標が完成する。廟域の周囲には瓦葺の土塀を巡らせ、正門中央に 「竜の門」 がある。石敷の参道を進むと焼香殿があり、その後の階段を上がったところに石柵と唐門 (写真) がある。その奥が墳墓になっている。

この廟は、明人の陳元贇 (ちんげんぴん) が設計したと伝えられており、建物の構成は、儒教に基づく祠堂に倣っている。ここにも、中国や朝鮮の書物に親しみ儒教を尊んだ、義直の教養を見ることができる。江戸時代における中国建築として貴重な存在で、昭和12年に国の重要文化財として指定されている。
定光寺の山は、ホオノキなどの落葉樹も交ざるが、主としてシイやカシなど照葉樹の森である。しかし、参道や社殿の周辺には、モミジの仲間がたくさん植えられていて、見事な紅葉を見せてくれていた。

1650年に没した義直の墓地は、定光寺東北の山上に造営された。1651年に円形の墳墓と石標が完成する。廟域の周囲には瓦葺の土塀を巡らせ、正門中央に 「竜の門」 がある。石敷の参道を進むと焼香殿があり、その後の階段を上がったところに石柵と唐門 (写真) がある。その奥が墳墓になっている。

この廟は、明人の陳元贇 (ちんげんぴん) が設計したと伝えられており、建物の構成は、儒教に基づく祠堂に倣っている。ここにも、中国や朝鮮の書物に親しみ儒教を尊んだ、義直の教養を見ることができる。江戸時代における中国建築として貴重な存在で、昭和12年に国の重要文化財として指定されている。
定光寺の山は、ホオノキなどの落葉樹も交ざるが、主としてシイやカシなど照葉樹の森である。しかし、参道や社殿の周辺には、モミジの仲間がたくさん植えられていて、見事な紅葉を見せてくれていた。

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