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牛牧(五六)閘門
岐阜城から10kmほど下流に長良大橋が架かっている。そこに長良川の支流、五六川と犀川が合流している。五六川下流の牛牧・祖父江地区は土地が最も低く、海抜5~6mにすぎない。そのため、大雨の度に長良川から五六川への逆流による浸水で村々は苦しんでいた。
寛延2年(1749)、幕府直轄地の代官に赴任してきた川崎平右衛門は、この悲惨な状況に心を痛め、牛牧の地に閘門を造ろうと考えた。長い間幕府に働きかけ、ついに宝暦7年(1757)に閘門の完成をみることとなる。これによって川沿いの村々は水害から守られたのである。

村人たちは、川崎代官の偉徳を偲んで閘門の近くに神社を建てた。「川崎神社」と称する。今も閘門を渡った直ぐの路傍に、小さな祠が祀られている。現在の閘門は明治40年(1907)に再建されたもので、江戸時代の姿を見ることはできない。
閘門には2基の扉がある。上部の両脇と、下部の中央に階段が設けられている。洪水時には、人の手で扉を閉めるのであろう。構造は石張りであるが、石と石の間は「長七たたき」で固められている。この方法は、コンクリート工法が普及する以前に利用されてきたものである。

寛延2年(1749)、幕府直轄地の代官に赴任してきた川崎平右衛門は、この悲惨な状況に心を痛め、牛牧の地に閘門を造ろうと考えた。長い間幕府に働きかけ、ついに宝暦7年(1757)に閘門の完成をみることとなる。これによって川沿いの村々は水害から守られたのである。

村人たちは、川崎代官の偉徳を偲んで閘門の近くに神社を建てた。「川崎神社」と称する。今も閘門を渡った直ぐの路傍に、小さな祠が祀られている。現在の閘門は明治40年(1907)に再建されたもので、江戸時代の姿を見ることはできない。
閘門には2基の扉がある。上部の両脇と、下部の中央に階段が設けられている。洪水時には、人の手で扉を閉めるのであろう。構造は石張りであるが、石と石の間は「長七たたき」で固められている。この方法は、コンクリート工法が普及する以前に利用されてきたものである。

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