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新川水門と新川樋門
油ヶ淵は元々北浦と呼ばれる海の入り江だったが、慶長8年(1603)に幕府により新矢作川が開削されると、海から断ち切られて湖沼となってしまった。ところが出口の水路がなかったので、周辺の低地は水害に悩まされた。そのため、鷲塚方面を開削して「蜆川(ばいがわ)」をつくり新矢作川へ排水した。
その後、この地域の新田開発が進んで蜆川だけの排水では足らなくなったので、宝永元年(1704)に新たに「新川」を開削して衣浦湾に流すようになった。それでも豪雨のときには冠水が発生するので、昭和10年に「高浜川」を整備して現在の形になっている。

昭和34年の伊勢湾台風では、高浜川や新川を逆流した高潮により、油ヶ淵上流の長田川や半場川などが氾濫し大きな被害となった。そこで、昭和38年に高浜川・新川に水門や樋門を整備して洪水を防いでいる。新川を取材した。衣浦湾近くに「新川水門」、油ヶ淵近くに「新川樋門」がある。
新川水門は5基の鋼製ゲートがあり、平常時は全開しているが洪水時には全部閉じられる。新川樋門の方は少し複雑な構造で、上下に動く「主ゲート」と水平に両開きする「マイターゲート」で構成されている。上流の水位が高いときには両方とも開いて排水する。海側の水位が高くなると、主ゲートは開いているがマイターゲートは閉じられる。洪水時には主ゲートも閉じられて、高潮の逆流を防ぐのである。

その後、この地域の新田開発が進んで蜆川だけの排水では足らなくなったので、宝永元年(1704)に新たに「新川」を開削して衣浦湾に流すようになった。それでも豪雨のときには冠水が発生するので、昭和10年に「高浜川」を整備して現在の形になっている。

昭和34年の伊勢湾台風では、高浜川や新川を逆流した高潮により、油ヶ淵上流の長田川や半場川などが氾濫し大きな被害となった。そこで、昭和38年に高浜川・新川に水門や樋門を整備して洪水を防いでいる。新川を取材した。衣浦湾近くに「新川水門」、油ヶ淵近くに「新川樋門」がある。
新川水門は5基の鋼製ゲートがあり、平常時は全開しているが洪水時には全部閉じられる。新川樋門の方は少し複雑な構造で、上下に動く「主ゲート」と水平に両開きする「マイターゲート」で構成されている。上流の水位が高いときには両方とも開いて排水する。海側の水位が高くなると、主ゲートは開いているがマイターゲートは閉じられる。洪水時には主ゲートも閉じられて、高潮の逆流を防ぐのである。

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