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宮田導水路
宮田用水は、「宮田導水路」とも呼ぶ。木曽川からの取水口をもち、他の用水に水を導く役目をもっているからである。大江用水は「大江川」とも言う。この用水の歴史はさらに古く、平安時代(794~1185)に遡ることができる。
長保3年(1001)尾張の国司大江氏(百人一首でも名高い「赤染衛門」の夫)が江南の宮田から水を引き込み、一宮・稲沢を南下したのち蟹江川となって伊勢湾に注ぐ、長大な用水路を造ったという。江戸時代には普通の川と思われ、「大江川」と呼んでいたのであろう。

宮田の辺りは木曽川が膨らんで、まるで蛇が獲物を飲み込んだような形をしている。木曽川本流と南派川の間に広大な中洲があり、川島町と呼ばれている。この複雑な地形が尾張平野西部の農耕地にとって重要な水源であり続けているのである。
宮田西閘門と南派川との間に宮田導水路の開渠があり、4門の水門(ゲート)があった。ここから大江用水へと導かれていく(暗渠)。導水路に沿って進むと、堤防のところにもうひとつ水門があった。これは取水でなく、余剰水を河川側に排水する施設である。常時は開いていて、洪水時に閉鎖される。


長保3年(1001)尾張の国司大江氏(百人一首でも名高い「赤染衛門」の夫)が江南の宮田から水を引き込み、一宮・稲沢を南下したのち蟹江川となって伊勢湾に注ぐ、長大な用水路を造ったという。江戸時代には普通の川と思われ、「大江川」と呼んでいたのであろう。

宮田の辺りは木曽川が膨らんで、まるで蛇が獲物を飲み込んだような形をしている。木曽川本流と南派川の間に広大な中洲があり、川島町と呼ばれている。この複雑な地形が尾張平野西部の農耕地にとって重要な水源であり続けているのである。
宮田西閘門と南派川との間に宮田導水路の開渠があり、4門の水門(ゲート)があった。ここから大江用水へと導かれていく(暗渠)。導水路に沿って進むと、堤防のところにもうひとつ水門があった。これは取水でなく、余剰水を河川側に排水する施設である。常時は開いていて、洪水時に閉鎖される。


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