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多治見橋
名古屋の城下は、東海道や中山道など主要街道から離れていた。そこでそれらと結ぶ脇街道が発達する。「下(した)街道」は、名古屋から中山道大井宿に至る道である。内津峠を越えて多治見を経由する。現在の国道19号やJR中央線に近いルートである。
多治見は古くから陶器の町として知られる。七世紀初頭から始められ、志野や織部といった美濃焼に発展している。多治見の街道沿いには今も歴史を物語る町名が残っている。本町・中町・上町・栄町、明治町・大正町などという名もある。土岐川を跨ぐのが「多治見橋」である。

明治の初めまでは、水量の少ない冬季には土橋が架かっていたが、夏は渡し船であった。初めて本格的な板橋が架けられたのは、明治13年(1880)の明治天皇行幸のときである。長さ110m、幅4mだったという。しかし、翌年洪水により流失してしまった。その後、4代目まで木製であった。
鉄筋コンクリートの永久橋が出来たのは昭和12年、現在の「多治見橋」である。延長115m、幅員11m。当時は国道であったが、19号がバイパスに移った後は県道15号となっている。平成になって欄干や照明灯などの修景が行なわれた。
多治見は古くから陶器の町として知られる。七世紀初頭から始められ、志野や織部といった美濃焼に発展している。多治見の街道沿いには今も歴史を物語る町名が残っている。本町・中町・上町・栄町、明治町・大正町などという名もある。土岐川を跨ぐのが「多治見橋」である。

明治の初めまでは、水量の少ない冬季には土橋が架かっていたが、夏は渡し船であった。初めて本格的な板橋が架けられたのは、明治13年(1880)の明治天皇行幸のときである。長さ110m、幅4mだったという。しかし、翌年洪水により流失してしまった。その後、4代目まで木製であった。
鉄筋コンクリートの永久橋が出来たのは昭和12年、現在の「多治見橋」である。延長115m、幅員11m。当時は国道であったが、19号がバイパスに移った後は県道15号となっている。平成になって欄干や照明灯などの修景が行なわれた。
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