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那古野山公園(旧浪越公園)
日本の公園制度は、明治6年 (1873) に、時の太政官が各府県に出した 「布達」 から始まったといえる。“都会において、これまで多くの人々が観賞遊覧していた景勝地や名所古跡地などを、永久に全ての人たちが偕楽の目的に供する 「公園」 というものにするように” というお達しである。
この制度によって、東京の上野寛永寺境内や京都の八坂神社境内などが公園となった。名古屋では、布達から6年経った明治12年に大須門前町の清寿院後庭が公園となった。これが名古屋市内第一号の 「浪越公園」 である。

この公園は明治42年、鶴舞公園開設の年に廃止となった。しかし大正3年には、その一部の小山部分だけを新たに 「那古野山公園」 と命名して今に至っている。この小山は前方後円墳と推定される 「那古野山古墳」 の円墳部分だけが残されたものである。
公園の西に接して 「大須演芸場」 の裏口がある。半世紀もの長い歴史をもち、多くの芸人の応援を得ながらも、今また、閉鎖の危機に陥っている。若き日のミヤコ蝶々が、芸に悩むたびに、この公園で心を癒したという逸話も残っている。

この制度によって、東京の上野寛永寺境内や京都の八坂神社境内などが公園となった。名古屋では、布達から6年経った明治12年に大須門前町の清寿院後庭が公園となった。これが名古屋市内第一号の 「浪越公園」 である。

この公園は明治42年、鶴舞公園開設の年に廃止となった。しかし大正3年には、その一部の小山部分だけを新たに 「那古野山公園」 と命名して今に至っている。この小山は前方後円墳と推定される 「那古野山古墳」 の円墳部分だけが残されたものである。
公園の西に接して 「大須演芸場」 の裏口がある。半世紀もの長い歴史をもち、多くの芸人の応援を得ながらも、今また、閉鎖の危機に陥っている。若き日のミヤコ蝶々が、芸に悩むたびに、この公園で心を癒したという逸話も残っている。

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