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弥富の六門樋門
木曽三川の氾濫に対してこの地域の人たちは、堤防で住居や田畑を囲う「輪中」という方法で防衛してきた。そのために、水を引き入れる「用水杁」と、流し出す「排水杁」という水門を造る必要があった。このことは、2020年8月21日の「立田輪中悪水樋門」のところで説明した。
その近くに、筏川を堰き止める「六門樋門」があるのを知り取材した。「筏川」とは、江戸時代に木曽桧を筏に組んで流していたところからの命名である。明治35年(1902)に立田輪中の悪水を鍋田川に排出する目的で「悪水樋門」を築造したが、ほとんど排水出来ないことが判明した。

そこで、廃川となっていた筏川に悪水を排出することとなり、明治39年に筏川に接するところに「六門樋門」が築造された。かつては階段を降りたところに狭い橋(足場)があり、堰き止める板を人力で運んだのであろう。現在は樋門の上が、弥富市総合体育館へ渡る「六門橋」として利用されている。
木曽川から入り組んだところにプレジャーボートの繋留場があり、現代版のゲートがある。船溜まりに流れ込む水路には、古くてすでに廃止となっている水門が残っている。水を制御しなければ安全を保てない土地柄である。近くに「水郷公園」があり、丘の上に伊勢湾台風の記念碑が築かれていた。

その近くに、筏川を堰き止める「六門樋門」があるのを知り取材した。「筏川」とは、江戸時代に木曽桧を筏に組んで流していたところからの命名である。明治35年(1902)に立田輪中の悪水を鍋田川に排出する目的で「悪水樋門」を築造したが、ほとんど排水出来ないことが判明した。

そこで、廃川となっていた筏川に悪水を排出することとなり、明治39年に筏川に接するところに「六門樋門」が築造された。かつては階段を降りたところに狭い橋(足場)があり、堰き止める板を人力で運んだのであろう。現在は樋門の上が、弥富市総合体育館へ渡る「六門橋」として利用されている。
木曽川から入り組んだところにプレジャーボートの繋留場があり、現代版のゲートがある。船溜まりに流れ込む水路には、古くてすでに廃止となっている水門が残っている。水を制御しなければ安全を保てない土地柄である。近くに「水郷公園」があり、丘の上に伊勢湾台風の記念碑が築かれていた。

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