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美濃赤坂の杭瀬川
中山道は京都を出発し、彦根・関ヶ原から美濃赤坂・大垣を経て加納(岐阜)へ向かう。(東海道本線が通っているので紛らわしいが、東海道はもっと南・桑名から亀山方面を通る道である)その重要な関所「不破の関」(現在の関ヶ原)は古代「壬申の乱」(672)以来、東西勢力の激突地であった。
慶長5年(1600)9月15日、天下分目の「関ヶ原の合戦」が行われた。その前日の14日、合戦の前哨戦とも言える「杭瀬川の戦い」が勃発する。大垣城を拠点と構える石田三成に対し、徳川家康は一歩京に近い「美濃赤坂の岡山」(現在は勝山という)に陣を置いたのである。

杭瀬川を挟んだ小競り合いであったが、西軍が勝利を収めた。翌日、三成は城を出て関ヶ原に陣を張る。その後の戦況は、小説やドラマなどで知る通りである。(来年の大河ドラマは「徳川家康」という)城攻めより野戦を得意とする家康の作戦に、三成が誘い出されてしまったのである。
杭瀬川は濃尾平野の最西端を流れる一級河川である。現在は細い流れであるが、元は大河川であった。洪水により流れが変わって、今は揖斐川が本流となっている。近くに「金生山」という石灰岩の山があり、採掘が行われている。水が綺麗なので、源氏ボタルが生息している。


慶長5年(1600)9月15日、天下分目の「関ヶ原の合戦」が行われた。その前日の14日、合戦の前哨戦とも言える「杭瀬川の戦い」が勃発する。大垣城を拠点と構える石田三成に対し、徳川家康は一歩京に近い「美濃赤坂の岡山」(現在は勝山という)に陣を置いたのである。

杭瀬川を挟んだ小競り合いであったが、西軍が勝利を収めた。翌日、三成は城を出て関ヶ原に陣を張る。その後の戦況は、小説やドラマなどで知る通りである。(来年の大河ドラマは「徳川家康」という)城攻めより野戦を得意とする家康の作戦に、三成が誘い出されてしまったのである。
杭瀬川は濃尾平野の最西端を流れる一級河川である。現在は細い流れであるが、元は大河川であった。洪水により流れが変わって、今は揖斐川が本流となっている。近くに「金生山」という石灰岩の山があり、採掘が行われている。水が綺麗なので、源氏ボタルが生息している。


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