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美濃赤坂のお茶屋屋敷跡
慶長5年(1600)9月14日、徳川家康は3万人の軍勢で美濃赤坂に到着した。陣を張ったのは「岡山」、標高53mの山というより丘のような高台である。しかし、中山道を見下ろすには格好の展望台となる。現在は「勝山」と呼ぶ。関ヶ原に戦勝した縁起を担いで改名したのであろう。
岡山の北に「お茶屋屋敷」があった。その東は中山道「赤坂宿」であり、さらに進むと「赤坂湊」があった。このお屋敷は、家康が上洛するときの宿泊場所として造られたものである。茶屋とはいえ城郭形式で、全体を堀と土塁で囲んでいた。四隅には櫓を備え、正面には大手門まであったという。

大坂城には未だ豊臣家が存続しており、若き日に信長が襲われた事件を目の当たりにした家康としては、旅先とはいえ厳重な警備を怠らなかったのであろう。名古屋では城内に本丸御殿を造成して宿泊場所に当てた。ちなみに尾張藩主は、二の丸御殿に居住していた。
家康没後は次第に使用されなくなり、破損が著しくて廃絶されてしまった。明治4年の廃藩置県のときに、村の名主・矢橋氏に払い下げられて現在に至る。中央部分は広大な「牡丹園」として公開されている。敷地の周辺を見ると、土塁・堀の凹凸や古井戸の跡などが残っており、往時を偲ぶことができる。

岡山の北に「お茶屋屋敷」があった。その東は中山道「赤坂宿」であり、さらに進むと「赤坂湊」があった。このお屋敷は、家康が上洛するときの宿泊場所として造られたものである。茶屋とはいえ城郭形式で、全体を堀と土塁で囲んでいた。四隅には櫓を備え、正面には大手門まであったという。

大坂城には未だ豊臣家が存続しており、若き日に信長が襲われた事件を目の当たりにした家康としては、旅先とはいえ厳重な警備を怠らなかったのであろう。名古屋では城内に本丸御殿を造成して宿泊場所に当てた。ちなみに尾張藩主は、二の丸御殿に居住していた。
家康没後は次第に使用されなくなり、破損が著しくて廃絶されてしまった。明治4年の廃藩置県のときに、村の名主・矢橋氏に払い下げられて現在に至る。中央部分は広大な「牡丹園」として公開されている。敷地の周辺を見ると、土塁・堀の凹凸や古井戸の跡などが残っており、往時を偲ぶことができる。

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