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養老の源氏橋
今度は、源義朝である。家康は四日市から船で常滑に渡った(2022・6・26)が、義朝もやはり小舟で野間へ逃れた。平治元年(1159)、平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、勢力圏である関東に落ち延びるため東へと向かっていた。途中、大垣の青墓という所から舟で知多へ渡ることとした。
養老駅のすぐ東に「源氏橋」という石橋がある(前回の図面参照)。ここから乗船したという記念の橋だが、川は2~3mの細い水路である。南に流れて、揖斐川の支流・津屋川に合流する。義朝の主従5人が「柴舟」という小さな川舟に乗ったというが、果たしてそのまま伊勢湾を渡れたのだろうか。

現在、石橋は車道から少し離れたところに架かっている。橋台は石積みだが、橋脚も高欄も切石造りである。親柱に仮名?で「げんじはし」と記してある。もう一つの柱には、「明治十三年」と刻まれている。高欄の石板に源義朝の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」がレリーフとなって描かれている。
野間まで逃げ延びることができたが、頼りにした知人の裏切りにより風呂場で討たれてしまった。野間大坊には義朝のお墓があり、後世の人たちが木刀を奉げている。(2020・6・21参照)
鎌倉時代、江戸時代、それぞれが始まる前段で、歴史が変わるかもしれない大事件があった。

養老駅のすぐ東に「源氏橋」という石橋がある(前回の図面参照)。ここから乗船したという記念の橋だが、川は2~3mの細い水路である。南に流れて、揖斐川の支流・津屋川に合流する。義朝の主従5人が「柴舟」という小さな川舟に乗ったというが、果たしてそのまま伊勢湾を渡れたのだろうか。

現在、石橋は車道から少し離れたところに架かっている。橋台は石積みだが、橋脚も高欄も切石造りである。親柱に仮名?で「げんじはし」と記してある。もう一つの柱には、「明治十三年」と刻まれている。高欄の石板に源義朝の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」がレリーフとなって描かれている。
野間まで逃げ延びることができたが、頼りにした知人の裏切りにより風呂場で討たれてしまった。野間大坊には義朝のお墓があり、後世の人たちが木刀を奉げている。(2020・6・21参照)
鎌倉時代、江戸時代、それぞれが始まる前段で、歴史が変わるかもしれない大事件があった。

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