Entries
大垣城と大洪水記念碑
関が原をはさんだ西の彦根城と東の大垣城は、東西の勢力にとって重要な位置を占めている。慶長5年 (1600)、石田三成は大垣城に入城して西軍の本拠とした。そして、中山道を大阪へ向かおうとする徳川軍と、城から見下ろす赤坂の地で緒戦を開いた。「杭瀬川の戦い」 といい、ここでは西軍が勝利を収めた。その後、両軍は戦いを関が原に移して、天下分け目の決戦が行われたのである。
大垣城は天文4年 (1535) に宮川安定が築城した。水門川を利用して外堀とした平城である。天守閣は慶長元年 (1596) に造営、四重四層建て総塗りこめの優美な城である。時代が下って、昭和11年には国宝に指定されたが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。現在の城郭は、昭和34年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。

木曽・揖斐・長良川の流れる西美濃の輪中地帯は、長年に亘って洪水との戦いに明けくれてきた。明治29年(1896) の7月には大雨が、9月には台風が襲来して大垣の町は水浸しとなった。天守閣の北西角に小さな記念碑が立っている。災害を永く忘れないようにと建てた石碑で、石垣にもその時の水位が刻まれている。 (赤い矢印)

大垣城は天文4年 (1535) に宮川安定が築城した。水門川を利用して外堀とした平城である。天守閣は慶長元年 (1596) に造営、四重四層建て総塗りこめの優美な城である。時代が下って、昭和11年には国宝に指定されたが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。現在の城郭は、昭和34年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。

木曽・揖斐・長良川の流れる西美濃の輪中地帯は、長年に亘って洪水との戦いに明けくれてきた。明治29年(1896) の7月には大雨が、9月には台風が襲来して大垣の町は水浸しとなった。天守閣の北西角に小さな記念碑が立っている。災害を永く忘れないようにと建てた石碑で、石垣にもその時の水位が刻まれている。 (赤い矢印)

- 関連記事
-
- 旧大浜警察署 (2014/02/17)
- 大垣城と大洪水記念碑 (2014/02/07)
- 大須(真福寺)文庫 (2014/01/10)
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- トラックバック URL
- http://chubu-fukken.com/tb.php/91-f5916aed
- この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)