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桑名城と北大手橋
尾張、伊勢との国境にある美濃「高須藩」は、尾張二代藩主・徳川光友の次男が藩主となって以来、代々尾張家の支藩であった。尾張宗家の嗣子が絶えた時には、尾張家の当主を送り出す。幕末のころには、次男慶勝は尾張、七男容保は会津、九男の定敬(さだあき)は桑名の藩主であった。
激動の時代に松平容保は京都守護職、定敬は京都所司代を務めて幕府を守ろうとした。畿内における最大の戦力であったが、鳥羽伏見の戦いを経て会津、函館まで幕府側として戦い抜いたが敗戦する。明治になっても、桑名藩は、会津と並んで新政府からは敵視し続けられた。

桑名の城は、江戸時代になると本多忠勝が入城し、城郭の増改築や町割りの整備を行った。揖斐川の河口近くに造られた平城である。幾重にも水掘で囲んだ重厚な構えであった。お城に接して東海道の「桑名の宿」(宮の渡しから七里の海路)の湊がある。交通の要衝でもあった。
現在城跡は、「九華公園」として市民に公開されている。堀の跡は水路として、船舶の停留地になっている。水路の護岸の石積みは城郭時代の石垣であり、500mほどが残存している。河口部に個性的な石造りの橋がある、「北大手橋」という。欄干に古い絵図のレリーフが添付されている。
激動の時代に松平容保は京都守護職、定敬は京都所司代を務めて幕府を守ろうとした。畿内における最大の戦力であったが、鳥羽伏見の戦いを経て会津、函館まで幕府側として戦い抜いたが敗戦する。明治になっても、桑名藩は、会津と並んで新政府からは敵視し続けられた。

桑名の城は、江戸時代になると本多忠勝が入城し、城郭の増改築や町割りの整備を行った。揖斐川の河口近くに造られた平城である。幾重にも水掘で囲んだ重厚な構えであった。お城に接して東海道の「桑名の宿」(宮の渡しから七里の海路)の湊がある。交通の要衝でもあった。
現在城跡は、「九華公園」として市民に公開されている。堀の跡は水路として、船舶の停留地になっている。水路の護岸の石積みは城郭時代の石垣であり、500mほどが残存している。河口部に個性的な石造りの橋がある、「北大手橋」という。欄干に古い絵図のレリーフが添付されている。
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