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今年は関東大震災100年目(再掲)
◆◆今日の中日新聞朝刊で知りました。今年は「関東大震災」から100年目だということを。2014年9月1日(防災の日)に掲載した記事の再掲です◆◆
三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、明治11年(1878)に、荒廃していた大名屋敷など約3万坪を買い上げ、大規模な庭園づくりを始めた。庭園整備の事業は弟の2代目・弥之助が引き継ぎ、完成をみたのは、弥太郎の長男、3代目・久弥の時代、明治24年(1891)のことである。
大正12年(1923)9月1日の「関東大震災」の折、この「清澄庭園」に避難した多くの人々は生き延びることができた。それに比べて、墨田区の「被服廠跡地」(6.6ha)に逃げ込んだ約4万人の人々は、ほとんど焼け死んでしまった。その違いは、一方が樹林に囲まれ、池などがあるのに対し、もう一方は樹木もない更地であったからといわれている。近年の研究では「火災旋風」(炎の渦巻)に襲われたのではないかとも考えられている。
現在は、東京都の所有する都市公園になっており、震災被害の少なかった東半分は、当時のような「清澄庭園」(有料)に、被害の大きかった西半分は、芝生広場を中心とした「清澄公園」として開放されている。

三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、明治11年(1878)に、荒廃していた大名屋敷など約3万坪を買い上げ、大規模な庭園づくりを始めた。庭園整備の事業は弟の2代目・弥之助が引き継ぎ、完成をみたのは、弥太郎の長男、3代目・久弥の時代、明治24年(1891)のことである。
大正12年(1923)9月1日の「関東大震災」の折、この「清澄庭園」に避難した多くの人々は生き延びることができた。それに比べて、墨田区の「被服廠跡地」(6.6ha)に逃げ込んだ約4万人の人々は、ほとんど焼け死んでしまった。その違いは、一方が樹林に囲まれ、池などがあるのに対し、もう一方は樹木もない更地であったからといわれている。近年の研究では「火災旋風」(炎の渦巻)に襲われたのではないかとも考えられている。
現在は、東京都の所有する都市公園になっており、震災被害の少なかった東半分は、当時のような「清澄庭園」(有料)に、被害の大きかった西半分は、芝生広場を中心とした「清澄公園」として開放されている。

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