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都田テクノポリスと総合公園
「三方ヶ原」と聞くと、徳川家康を思い浮かべる。武田の大軍に蹴散らされて、家康も命からがら浜松城に逃げ帰ったという戦いである。武田軍は諏訪を回って秋葉街道を南下し、二俣城を落とした。家康は浜松城で籠城戦に臨もうとしたところ、武田軍は素通りして浜名湖の堀江城へと進軍した。
武田・徳川の戦いは三方ヶ原で繰り広げられた。この台地は、天竜川と都田川に囲まれた三角形の洪積層台地である。東西10km×南北15kmほどの広さで、標高は25m~110mである。江戸時代は荒れた土地で採草地に過ぎなかったが、明治になって水が引けるとお茶などの畑になった。

昭和59年(1984)に、「浜松地区テクノポリス」開発計画が認められると、台地の西北の都田地区が中核拠点として選ばれた。平成3年までに造成工事が行われ、現在ではいくつかの企業や工業技術センター・静岡大学イノベーションセンターなどの研究機関が事業を進めている。
総面積243haの内訳は、企業用地100ha・住宅用地42ha・公共用地(道路や公園など)101haである。地区の中央に「都田総合公園」がある。広い芝生広場や桜・ツツジなどの樹林がある。道路を跨ぐシンボリックな「北都橋」や、溜池に架かる「増沢の吊り橋」などもある。


武田・徳川の戦いは三方ヶ原で繰り広げられた。この台地は、天竜川と都田川に囲まれた三角形の洪積層台地である。東西10km×南北15kmほどの広さで、標高は25m~110mである。江戸時代は荒れた土地で採草地に過ぎなかったが、明治になって水が引けるとお茶などの畑になった。

昭和59年(1984)に、「浜松地区テクノポリス」開発計画が認められると、台地の西北の都田地区が中核拠点として選ばれた。平成3年までに造成工事が行われ、現在ではいくつかの企業や工業技術センター・静岡大学イノベーションセンターなどの研究機関が事業を進めている。
総面積243haの内訳は、企業用地100ha・住宅用地42ha・公共用地(道路や公園など)101haである。地区の中央に「都田総合公園」がある。広い芝生広場や桜・ツツジなどの樹林がある。道路を跨ぐシンボリックな「北都橋」や、溜池に架かる「増沢の吊り橋」などもある。


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