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裁断橋(熱田区と大口町)
笠寺から宮の渡しへ向かう旧東海道が精進川(しょうじがわ=現新堀川)を渡るところに「裁断橋」が架かっていた。江戸時代には、この川を「三途の川」に見立てて、橋のたもとに「姥堂」が建てられていた。今では川筋も変わり、姥堂もRCの建物に変わってしまっている。
ただ、建物の前庭に裁断橋の複製が残り、御影石の石柱に「裁断橋」「姥堂」の文字を見ることができる。昔の様子は、大口町の「堀尾跡公園」の陶板レリーフを見るとよく分かる。太鼓橋を渡る旅人がおり、渡った向うに熱田神宮の鳥居が見える。手前には瓦屋根の「姥堂」が建っている。

裁断橋には、息子を戦場に送り出す「母」の悲痛な物語が残されている。天正18年(1590)秀吉による小田原征伐に参戦した、堀尾金助という若者を見送った橋である。橋の擬宝珠には、母親が33回忌の供養のために橋を架け変えたことが記されている。
堀口家のお城が大口町にあったことから、町を流れる五条川に裁断橋と擬宝珠が復原された。一帯は公園として整備され、「堀尾跡公園」と名付けられている。擬宝珠の本物は名古屋市の文化財に指定されており、損傷を防ぐために名古屋市博物館に保存されている。

ただ、建物の前庭に裁断橋の複製が残り、御影石の石柱に「裁断橋」「姥堂」の文字を見ることができる。昔の様子は、大口町の「堀尾跡公園」の陶板レリーフを見るとよく分かる。太鼓橋を渡る旅人がおり、渡った向うに熱田神宮の鳥居が見える。手前には瓦屋根の「姥堂」が建っている。

裁断橋には、息子を戦場に送り出す「母」の悲痛な物語が残されている。天正18年(1590)秀吉による小田原征伐に参戦した、堀尾金助という若者を見送った橋である。橋の擬宝珠には、母親が33回忌の供養のために橋を架け変えたことが記されている。
堀口家のお城が大口町にあったことから、町を流れる五条川に裁断橋と擬宝珠が復原された。一帯は公園として整備され、「堀尾跡公園」と名付けられている。擬宝珠の本物は名古屋市の文化財に指定されており、損傷を防ぐために名古屋市博物館に保存されている。

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