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中山道太田宿の脇本陣

 木曽川が飛騨川と合流し、山地を出たところに美濃太田の平地がある。木曽川は再び鵜沼と犬山の谷間を抜けていよいよ濃尾平野へと流れ出すのである。中山道はここで木曽川を渡ることとなるが、昭和2年 (1927) に太田橋が架かるまでは渡し舟に頼っていた。歌川広重の浮世絵にもその様子が描かれている。平常時で85間 (約155m) もある「太田の渡し」は、中山道の三大難所といわれていた。
 太田の宿は、東西の長さ6町余 (約700m)、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋など118軒が軒を連ねていた。また宿の西には 「尾張殿地方役人出張役所」 が置かれていた。木曽川を所領する尾張藩にとってこの地は、木曽川を渡った対岸 「美濃」 への橋頭堡であり、中山道を押さえる重要な拠点だったのであろう。

太田宿マップ

 宿場の中ほどに、元本陣の立派な門 (下の写真) が残されている。これは、皇女和宮が徳川14代家茂に嫁ぐため下向した際に新築されたものだという。本陣の門の向い側にある脇本陣は、ほぼ原型のまま保存・使用されている。「旧太田脇本陣林家住宅」 と称し、国の重要文化財に指定されている。主屋は明和6年 (1769) に造られ、表門や袖塀・裏の土蔵などは天保2年 (1831)に建築されたという。主屋の両端には 「うだつ」 があり、この建物の権威を示している。
 この脇本陣には、歴史に残る多くの旅人が宿泊した。槍ヶ岳に初めて登頂して開山した播隆上人は、度々太田宿を訪れ、この林家で没することとなった。板垣退助は明治14年、岐阜で遊説中に刺客に刺され “板垣死すとも自由は死せず” と絶叫して亡くなったが、その前日に逗留したのもこの宿であった。

太田宿A

(ご当主の林由是氏は、昨年末に97歳でお亡くなりになりました。氏は、名古屋花菖蒲会の重鎮として長く会を支えられました。ここに哀悼の意を表します。)

犬山有楽苑の「如庵」

 犬山城の東側、名鉄ホテル南側の庭園 「有楽苑」 の中に国宝 「如庵」 が建てられている。「有楽」 とは、織田有楽斎 (1547~1621) のこと。信長の実弟で 「茶の湯」 創成期に、尾張の生んだ大茶匠である。有楽はもともと武将であったが、晩年は武家を捨て茶人となり、京都建仁寺の正伝院を隠棲の地とした。
 「如庵」 は、その境内に元和4年 (1618) ごろ建てた茶室である。二畳半台目で屋根は柿葺、有楽好みの端正な外観を示している。明治以降は各地を転々とする事態となったが、ようやく有楽の生まれ故郷のこの地に帰りついたのである。隣の建物は、同じように移転してきた 「旧正伝院書院」 であり、国の重要文化財に指定されている。

有楽苑マップ

 建仁寺の塔頭の多くは、明治の廃仏毀釈により廃寺となった。細川家始祖の菩提寺 「永源庵」 も廃止されることとなったが、正伝院と合わせて 「正伝永源院」 とすることにより、その名を残せることとなった。正伝院は、永源庵の地に移転することとなったので、その建物のうち 「如庵」 や 「書院」 は手放さなければならなくなったのであろう。一時は東京に移転していたが、犬山に安住の地を得たのである。
 現在、正伝永源院には、同じような姿形に復元された如庵が建てられている。また、寺の入口近くには、織田有楽斎の石塔が建てられていて、有楽斎の事跡を留めている。

有楽苑B

中津川宿の「うだつ」

 中山道は、名の通り山の中を進む道である。全長135里 (約530km) におよび、69の宿場があるが、そのうち28 (40%) もの宿が長野・岐阜両県に置かれていた。中津川宿は、奈良・平安の時代から街道の要所であり、中山道の中でも特に賑わった宿場のひとつである。
 全長1100m、本陣・脇本陣・旅籠30が軒を並べていた。中津川と四ツ目川に挟まれ、直角の曲がり角「枡形」に当たる位置に二つの立派な建物が残されている。下の写真は造り酒屋で、4本もの 「うだつ」 が上がっている。「うだつ」 は、隣家からの延焼を防ぐ防火のための壁に屋根を付けたものであるが、裕福な家しか上げることができなかったので「うだつがあがらない」という慣用句ができた。蒸し上げたお米を保温するため、藁縄で丁寧に巻かれた大樽が展示されていた。

中津川宿D

 造酒屋との対角線に、面白い形をした 「うだつ」 がある。旧中川家の一部で、2軒が連なる長屋になっている。街道に接する壁の上に立つ 「うだつ」 が、2か所で 「への字」 に曲がっていて個性的である。案内看板には説明されていなかったが、道路が同じ形で曲がっており、道路際いっぱいまで家を建てたため、壁・うだつともに曲げて作ったものと思われる。

中津川宿マップ

岩村の城下町

 駅に隣接する喫茶店で電動のレンタサイクルを借り、岩村の城下町を散策した。城郭自体は急な坂や階段であるが、城下町もお城へ向かって緩やかな登りになっている。寄せ手に対して、坂の上から攻撃できる山城の有利な形態であると思われる。
 古い町並みは、近世以来の商業活動によって栄えた商家により構成されている。全体によく保存整備されており、重要伝統的建造物群保存地区 (重伝建) に指定されている。ちょうど、町の文化や楽しみを紹介するテレビレポートのクルーが取材しているところだった。

岩村城下町マップ

 町の中ごろで、古い建物の改修工事が行なわれていた。「曳家」 により移動するのかと思って近くの人に聞くと、基礎を頑丈にするため一旦持ち上げているのだという。地震に対する備えであろうが、古い建物を保存するには多くの費用も必要である。

岩村城下町B

 江戸時代に建てられ、藩主も度々訪れたという木村邸は、玄関・座敷・書院・庭園などがよく保存されている。囲炉裏のある部屋もあって、町屋の文化と風情を味わうことができる。道路沿いに杉玉を飾っている造り酒屋の奥には、土蔵などで囲まれた中庭があって、地元の山野草などが植え込まれていた。

岩村城下町C

岩村城

 ブログの発信がずいぶんと間が空いてしまいました。12月に入って初めての更新です。実は私のパソコンが壊れてしまったのです。大量の写真やデータが取り出せなくなってしまいましたので、青ざめてしまいましたが、何とか直すことができました。また、気を取り直して発信してまいりますので、アクセスいただきますよろしくお願いいたします。

 岩村城の歴史は古く、鎌倉中期の文治元年 (1185) にまで遡るという。頼朝の重臣加藤氏 (後に遠山氏) が代々居城としてきたが、戦国時代に大きな波乱があった。この地は、甲斐の武田氏にとって上洛のためにはどうしても欲しい場所であり、尾張の織田家にとっても、信濃への道筋の拠点に当たる重要な地であった。
 女城主として名高い “岩村御前” は、織田信長の叔母に当たる女性だという。武田勢の大軍に包囲されながらよく耐えて戦ったが、ついに和議に応じて武田方に付いてしまった。時移って武田が長篠の合戦で大敗した後、岩村城は信長軍に包囲され、岩村御前も和議を許されずに滅ぼされてしまったという。

岩村城E

 岩村城は、日本百名城に選ばれ、また日本三大山城にも数えられている。本丸は、海抜717mもの高地にあり、一之門をくぐってからも更に急な階段や坂道を登ったところにある。右の写真はずっと下方にある太鼓櫓で、藩主の邸宅や藩校「知新館」の近くにある。
 知新館正門の横に綺麗に紅葉した樹形の美しい木があった。説明板によると、ウルシ科のトネリコバハゼノキという種類で、中国では「楷樹」といい孔子の墓所に植えられているという。日本には、湯島聖堂など儒学と特別な関係のあるところに分け与えられていて、この木は湯島聖堂から苗木を譲られたものだという。

岩村城F


中山道 下ノ諏訪宿

下ノ諏訪宿は、中山道と甲州街道の接点にあり、交通や軍事上の重要な地であった。元は、諏訪大社の門前町や温泉地として発展したが、江戸時代になって中山道六十九次の宿場町として賑わった。町並の長さは4町50間 (約530m)、甲州街道の分を含めると8町49間 (約960m) になるという。
 宿場の中ほどに問屋場を兼ねた本陣が置かれ、大名や公家などの宿となった。文久9年 (1861) の皇女和宮が降嫁のため江戸に向かう際には、この本陣・岩波家にお泊りになった。また、明治13年に明治天皇が各地をご巡幸されたときにも、小休所として利用された。現在も建物や庭園の一部が残されていて、町の文化財に指定されている。

下ノ諏訪宿マップ

 両街道が交差する辺りに 「下諏訪町立歴史民族資料館」 があり、宿場や皇女和宮についての資料を展示している。また、建物そのものが明治初期に建てられた旅籠としての展示物になっている。街道に面する表側は「出梁造り」といい、一階の梁を突き出して二階を乗せたもので、旅籠屋だけに許されていた。一階にも二階にも、細かい格子が付けられている。入口には板でできた 「大戸」 が嵌められていて、大名などの荷物の出し入れには利用されたが、普段は 「くぐり戸」 が使われていた。

下ノ諏訪宿D

諏訪の高島城

 天正18年 (1590年)、2万7千石の諏訪城主となった秀吉の家臣・日根野氏は、諏訪湖畔のこの地を選んで城を築いた。もともと安土城や大坂城などを手がけた築城の名手で、見事な名城は湖上に浮いているように見えることから別名 「諏訪の浮城」 とも呼ばれていた。
 関が原の合戦後は、徳川方に属した元の城主諏訪氏が藩主となり、10代270年の長い間、居城として諏訪を治めた。しかし、明治4年 (1871) 廃藩置県が行なわれると、城郭の撤去が決定し、明治8年に天守閣などが壊されてしまった。復興されたのは昭和45年、天守閣と同時に冠木門や角櫓なども復元された。現在、高島公園として公開されている。

高島城マップ

 天守閣の西、美しい松の根元に 「亀石」 と呼ばれる大石がある。元は城内の庭石だったが、明治になって城外の庭園に移されていた。平成19年になって市民の願いもあり、132年ぶりに元に戻すことができた。この石に水をかけると、まるで生きた亀のようになり、願いが叶うという。
 北側には、たくさんの穴の開いた奇妙な石が置かれている。これは 「石集配湯枡」 という。享和3年 (1803)、7代藩主が三之丸に浴場を設けた際に、湯を引くためにつくったものである。木製の 「木樋 (きとよ) 」 をつなぐ枡で、集湯や配湯を行なうための装置である。
高島城A

宮の宿

                                               ≪再掲:2015・4・7≫
 熱田神宮の門前町で「熱田宿」ともいう。天保14年(1843)の記録には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒あったという。桑名への海上7里の渡し場があり、大垣までの佐屋路・岐阜までの美濃路の分岐点であり、さらに62万石の城下町名古屋の表口として、街道一の賑わいを見せていた。
 江戸時代に描かれた数々の絵図が残されていて、当時の宿場町の様子を知ることができる。文化3年(1806)に成立し、文化13年に転写された「熱田宮全図」(西尾市岩瀬文庫蔵、下の図はその部分)を見ると、停泊する舟の様子や常夜灯・浜鳥居・浜御殿・建ち並ぶ旅籠の様子がよくわかる。鳥居から真っ直ぐ通る道は、熱田神宮への参道である。

宮の宿5

 現在、古い建物はほとんど残っていないが、宮の渡し公園のすぐ北に古風な建物がある。名古屋市指定建造物「丹羽家住宅」である。丹羽家は幕末のころ、伊勢久と称し、脇本陣格の旅籠だった。正面の破風の付いた玄関は、当時の格式の高さを偲ばせている。

宮の宿マップの2

毘沙門天(香久山妙法寺)

 田子の浦港の東、吉原宿と原宿の間に、個性的なお寺がある。「毘沙門天」、正式名称は 「妙法寺」 である。元々は、祈祷を行なう毘沙門堂と、仏事を行なう妙法寺という性格の異なる二つのお堂から成り立っているという。写真左が毘沙門堂で、右端のドーム屋根が妙法寺の錬成道場である。
 沿革によれば、今から1200年ほど前、山伏たちが海抜0mの海岸から富士山に登るための “みそぎ” をした道場が起源だとある。寺領は広大で、3万坪 (10ha) を越える。戦国時代には、甲斐武田氏の東海道進出の砦となり、江戸時代には、徳川御三家紀伊公が長く逗留したこともあった。

毘沙門天マップ

 お堂の中のご神体は拝見できなかったが、境内に石像が立てられていた。毘沙門天は多聞天とも呼び、須弥山中腹の四方の門を守る四天王 (持国天・増長天・広目天・多聞天) の一人である。四天王の信仰は飛鳥時代からあり、聖徳太子が四天王寺をつくったことは広く知られている。
 階段を登って鳥居をくぐると、四方の屋根に龍の飾られた極彩色のお堂があって目を引きつけられる。中国様式で 「龍神香炉堂」 という。旧正月の3日間開催される 「毘沙門天大祭」 は、数十万人の参拝客で賑わうという。このとき、全国からたくさんのダルマ屋が集まることから、全国一の「だるま市」としても有名である。

毘沙門天D

防災倉庫

 富士市新橋町に防災倉庫を見つけた。老人憩いの家を兼ねた公民館の駐車場に建てられている。中は見ていないが、救助のための道具や医薬品、非常食などが貯えられているのだろう。すぐ近くに海抜を示す標識があった。地表から1mほどのところが3.6mと記してある。
 大地震により5mもの津波に襲われると防災倉庫自体が水を被ってしまう。公民館もコンクリート造りではあるが、2階や屋上に逃げ込めば大丈夫なのだろうか?間近に迫るという南海トラフ地震や、かなり以前から危惧されている東海沖地震を考えると、災害への備えはどれだけやってもやり過ぎということはないように思う。

防災倉庫マップ

 沼津市で「狩野川堤」を歩いてみた。60年ほど前に伊豆半島や関東地域を襲った 「狩野川台風」 を思い出す。昭和33年9月27日、神奈川県東部に上陸した台風22号のことである。風害は比較的軽微であったが、時間120mm、総雨量750mmを越える豪雨が伊豆半島の山地に降り、狩野川流域に大被害をもたらしたのである。
 上流域では、戦中・戦後の木材伐採のために荒れている山地が鉄砲水や土石流を起こし、中流域の修善寺あたりでは橋桁にひっかかった流木がダムとなって水を堰きとめ、そのダムが決壊したために下流域で大水害を発生させたのである。流域だけで800人を超す被害者があったという。災害は忘れた頃にやってくるという。伊勢湾台風や阪神淡路大震災、東日本大震災や熊本地震を永く心に刻み、次の災害に備えなければならない。

防災倉庫D

富士山と煙突

 東海道新幹線で東京方面へ向かうときの楽しみのひとつは、車窓から富士山を眺めることである。座席が進行方向左の窓際に取れ、天気が良いという好条件が揃ったときに初めて願いが叶う。海外からの観光客でもなく、新幹線初心者でもないけれど、そんな日は写真に収めようとカメラを構えてしまう。
 ところが富士川を渡り、今こそと思ってもなかなか良い写真は撮れない。手前に電線や家屋、ましてや煙を吐く煙突などが写ってしまうと、写真が台無しになるのである。高速で走る列車から撮ろうなどという物草がいけないのだが、なかなか降り立って写真撮影する余裕はない。せっかくの世界遺産なのだから、いっそ景観に配慮して煙突を無くせば良いとも思うのだが、産業との兼ね合いを考えれば無理な願いかもしれない。

製紙工場マップ

 富士山南側の麓、富士市には製紙会社が多い。紙を作るには大量の水が必要であるが、この地は富士山の伏流水という良質な水が得られるのである。また、東名高速道路や田子の浦港など交通の便が良いので、原料となる古紙の運搬や首都圏への製品の輸送にも好都合なのである。現在、日本製紙富士工場など、製紙工場の数は日本一を誇っている。

製糸工場B

落合宿の本陣とお助け釜

 「木曽路はすべて山の中である」、島崎藤村の 『夜明け前』 の書き出しである。海岸沿いを走る南側の東海道に比べて、北側を進む中山道は、名の通りまさに山中の街道である。中山道が整備されたのは江戸時代初期・寛永年間 (1630年ごろ) のこと。総延長135里 (約520km)、69の宿場があった。東海道より距離は長く登り下りも多いが、大河川の渡しなどを避ける利点もあった。
 落合宿は江戸から44番目、馬籠宿と中津川宿の間にある。幕末の頃の記録 「中山道宿村大概帳」 によれば、宿場町の長さ390mで家の数は75軒だったという。その中に、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠は14軒が含まれていた。

落合宿マップ

 本陣は、文化年間の度重なる火災により焼失したが、文化15年 (1818) に復興された建物が今も残っている。下の写真に見る立派な門は、加賀前田家から寄進されたものである。文久元年 (1861) 皇女和宮内親王が徳川家に降嫁する折、御小休されるのに使われたほか、明治13年 (1880) の明治天皇行幸にも御小休のために使用されたという。
 宿場の中ほどに丸太の小屋があり、その中に「助け合い大釜」が置かれている。和宮の大通行時には、4日間で2万6千人もの人々が通行したので、暖かいおもてなしをするためにかまどは炊き続けられたという。もともとは、寒天の原料の天草を煮るために作られたものであるが、今は様々なイベントにも使用されている。

落合宿G

清見寺(朝鮮通信使遺跡)

 清水港を見下ろすこの地は、山が海に迫り、自然の要害をなす地勢である。古くは、東北の蝦夷に備えて関所が設けられていたので 「清見関」 と呼ばれていた。戦国時代など戦乱の折には、重要な拠点として、争奪の巷と化すこと多々であったという。今もこの狭い海岸沿いに、東海道本線・東海道新幹線・国道1号線・東名高速道路・清見バイパスが所狭しと並走している。
 関所の傍らに、その鎮護のために仏堂が建てられたのが「清見寺」の始めだという。鎌倉時代の中ごろ弘長2年 (1262) のことで 「清見関寺」 と呼ばれていた。今川氏や徳川家にも庇護を受け、明治維新の変革の際にも荒廃を免れて、今も立派な七堂伽藍が残されている。

清見寺マップ

 山門の柱に、「史蹟 清見寺境内―文部省」 と記す銅張りの看板が架かっている。また、境内の説明板には 「国指定史蹟 朝鮮通信使遺跡」 と書かれている。豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後断絶していた李氏朝鮮との国交を回復するため、徳川家康は朝鮮通信使の派遣を提案した。徳川将軍の代替わりの度に来日した使節団の休憩所として使用されたのがこの清見寺である。今も、書画や漢詩に優れた通信使による書や扁額が多数残されている。

清見寺C

由比の宿本陣

 由比の宿は、お江戸日本橋から数えて16番目の宿場町である。江戸時代には、大名が宿泊する本陣1軒、それを補完する脇本陣1軒、普通の人々が泊まる旅籠が32軒あり、相当な賑わいを見せていたという。明治になって本陣は取り壊されてしまったが、表門、石垣、木塀などが残されていて、往時のたたずまいを彷彿とさせている。
 特に、外塀の石積みは堅固なだけでなく、デザイン性にも富んでいる。お施主と石工との美的感性が凝縮されたものであろう。現在は 「由比本陣公園」 の外柵として利用されている。公園内には、浮世絵師・歌川広重の作品などを集めた 「東海道広重美術館」 や観光情報を発信し食事もできる「東海道由比宿交流館」、庭園や芝生広場などが整えられている。

由比宿A

 由比本陣公園の、道路を挟んだ反対側に、藍染の布製品を売る店があった。「正雪紺屋」 と呼ぶ、江戸初期から400年近くも続く染物屋である。手ぬぐいや暖簾といった商品の並ぶ店舗の横に、昔ながらの藍甕 (あいがめ) の並ぶ作業場が残されていて、染物作業の様子を偲ぶことができる。
 「正雪」 とは由比正雪のことで、この紺屋が生家だという。慶安4年 (1651) 江戸幕府改革のため乱 (由比正雪の乱) を起こして久能山に立篭もったが、未然に露見し自刃して果てた。近くの正覚寺に首塚が残っているという。

由比宿マップ

徳川慶喜屋敷跡

 少し歴史のおさらいを・・・ペリーが来航したのが1853年、翌54年に日米・日英・日露和親条約が結ばれる。1859年の安政の大獄を経て翌60年に桜田門外の変、いよいよ日本も鎖国を解き、激動の時代へと入っていく。
 14代将軍・徳川家茂が亡くなったのは1866年、その後を継いだのが15代慶喜である。慶喜は水戸藩主斉昭の7男で、御三卿一橋家の当主になっていた。鳥羽伏見の戦いで官軍に敗れた慶喜は、海路江戸に逃れ、慶喜討伐令を受けて上野寛永寺にて謹慎。西郷隆盛・勝海舟の会談により江戸無血開城。1867年王政復古の大号令が出され、68年明治維新を迎えることとなる。

慶喜屋敷跡マップ

 さて、大政奉還した徳川慶喜は、西郷・山岡鉄太郎 (鉄舟=幕臣) の駿府会談により助命を受け、隠居の身となって駿府 (静岡) に移住することとなった。駿府での住居としたのが、元代官屋敷であったこの屋敷である。駿府城の南西、現在の静岡駅にも程近い所である。池を中心とした美しい庭のあるお屋敷に住み、政治を忘れて趣味に没頭する生活を送った。鉄砲を担いで野山での狩猟をしたり、最先端をいく自転車 (前輪の大きい) を乗り回していたという。
 そのお屋敷は、現在、料亭 「浮月楼」 として、静岡の迎賓館的役割を果たしている。

慶喜屋敷跡C

熊本城

 古くは 「隈本城」 と呼んだ。新しく壮大な城を造ったのは加藤清正である。慶長5年 (1600) の関が原の合戦で功を立てた清正は、肥後52万石を領することとなった。新城落成は慶長12年 (1607) のこと、名を「熊本」に改めたのもこの年である。
 時は流れて明治10年 (1877)、西郷隆盛が野に下って西南戦争を戦ったのがこの城である。ところが開戦3日前に、原因不明の出火によりこの難攻不落の名城は、天守閣をはじめ主要な建物のほとんどを焼失してしまった。現在の天守閣は昭和35年に再建されたものである。

熊本城B

 加藤清正は、築城の名手といわれている。特に石垣造りにはその能力を遺憾なく発揮して、名古屋城など各地の城で足跡を残している。自身の城・熊本城でも堅固な石垣を築き上げた。今でも近づくと、威圧感を感ずるほど豪壮である(下左の写真)。
 下右の写真は、創建当時から残る「宇土櫓」(国の重要文化財)である。地上5階・地下1階という多層櫓で、普通の城郭なら優に天守に匹敵するほどの規模である。現在、熊本を始め九州は未曾有の大地震に見舞われている。熊本城も大被害を受けているが、この櫓は石垣が壊れることもなくしっかりしているという。

 早くこの地震が収まることと、被災された方々の避難生活が、少しでも安楽なものであってほしいと願うばかりである。

 熊本城C



丸子宿の茶屋

 東海道難所のひとつ宇津ノ谷峠は、道幅も1間半 (約2.7m) と狭いが、丸子では2間半、安倍川に至ると3間半と広くなっていく。丸子宿は、街道の両側に人家が並んでいるだけの細長い町並みであったという。
 ここで旅人を慰めたのは、有名な 「とろろ汁」 で、歌川広重の浮世絵 「東海道五十三次」 にもその風景が描かれている。ところが、その絵とまったく同じ茶店が今も残っているのである。茅葺の屋根、手前の庭木、後の丸い山まで同じであるのに驚いた。創業は慶長元年 (1596)、今から400年以上前とのこと。私の訪れた日はお店が休みで、とろろ汁を頂けなかったのが残念である。

丸子宿D

 手前の丸子川に橋があり、その親柱に 「まりこはし」 との銘板が掛かっている。茶屋前の石碑には「鞠子宿」と刻んであることから、丸子は鞠子とも書いたのであろう。
 松尾芭蕉は、この宿で 「梅若菜まりこの宿のとろゝ汁」と詠んでいる。

丸子宿マップ

駿府城

 徳川家康は、駿府に3度住んでいる。最初は天文18年 (1549) から10年ほど、今川氏の人質として少年時代を過ごした。2度目は今川氏が滅びた後、天正14年 (1586) に駿府城を居城とし、天守閣を始めとする二ノ丸までを完成させた。ところがわずか4年後には、秀吉の命によって関東へ転封させられてしまった。
 最後は江戸に幕府を開いてから、慶長12年 (1607) に秀忠に将軍職を譲って大御所となったときである。このときには全国の大名に命じて (天下普請)、お城と城下町の大幅な改造を行なった。当時の実権は、まだ家康が握っていたので、駿府は江戸を凌ぐ政治の中心地となったのである。

駿府城マップ

 天守閣は寛永12年 (1635) の大火で焼失して以来再建されず、安政元年 (1854) の大地震では、建物や石垣などがほとんど全壊してしまった。明治になって陸軍省に献納されたが、昭和24年に静岡市に払い下げられ、今は 「駿府公園」 と名付けられて市民に親しまれている。平成元年に 「巽櫓」 が、同8年には 「二ノ丸東御門」 が復元された。
 ≪上の写真は巽櫓から見た東御門橋、下の写真は南西角にある「坤櫓( ひつじさるやぐら) 」 である。下の図は、土佐光成が宝永年間に描いた 「駿府城下鳥瞰図 (部分) 」 である。現在は、駿府博物館に所蔵されている。≫

駿府城B

掛川城の天守閣と御殿

 掛川の城の歴史は古く、西暦1500年ごろに今川氏が築いたのが最初といわれます。その後、今川氏の勢力拡大に伴って手狭となり、500mほど西の現在地に新たな城が築かれました。しかし、永禄3年 (1560) に今川義元が桶狭間の戦いで討たれると、永禄11年には徳川家康がこの城を攻め取りました。一時期、豊臣秀吉の支配下になり山内一豊が入城しましたが、江戸時代には徳川譜代大名の居城となりました。
 外観の美しい天守閣は 「東海の名城」 と謳われましたが、安政元年 (1854) の東海大地震により損壊し、再建されることもなく明治維新の廃城を迎えます。それから140年を経た平成6年、掛川市民の熱意と努力が実を結び、全国初の本格的木造建築として復元されました。

掛川城B

 天守閣の南東にある二の丸に、御殿が残っています。安政の大地震では御殿も倒壊しましたが、時の城主太田氏によって文久元年(1861)に再建されました。明治になって藩が廃されると、学校や役場として使用されてきました。
 昭和47年から50年にかけて、藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築として保存修理が施され、昭和55年には国の重要文化財に指定されました。現存する城郭御殿としては、京都ニ条城など全国に4か所しかない貴重な建物です。

掛川城マップ

遠江国・国府跡

 先日 (12月9日) 国分寺跡についてご紹介したときには、すぐ近くに国府跡があることを知らなかった。後日訪れたときに、県道を挟んだ東側に 「府八幡宮」 という神社があり、これが国府の跡だと知って驚いた。名称に 「府」 とあるのが、国府であったことのしるしであるとのこと。
 入口に大きな鳥居があり、府八幡宮と書かれた扁額が掲げられている。文久3年 (1863) に建てられたものといわれているが、根元が傷んでいるせいかコンクリートで固められている。参道を進むと左側に杮葺 (こけらぶき) の楼門がある。建造は寛永12年 (1635) と古く、県の文化財に指定されている。楼門をくぐると中門があり、その奥に拝殿、本殿が続いている。

遠江国府A

 楼門の隣に、風変わりで朽ちかけた土塀を見つけた。玉石の上に粘土が固められ、最上部は瓦で葺いてある。説明を聞くと、明治以前は隣に神宮寺というお寺があり、神社との境界に築かれていたものだという。右端に小さな石碑があり、確かに 「神宮寺跡」 と記されていた。
 国分寺や国府の置かれていたこの地は、奈良時代には遠江国の中心地であったものと思われる。

遠江国府マップ

東山植物園の温室

 東山植物園の温室 (前館) は、昭和12年 (1937) の植物園開園と同時に公開されました。途中、戦争や伊勢湾台風により大きな被害を受けましたが、大きく改造することなく現在に至っています。面積約600㎡、一番高いところで12mです。今では、これ以上に大きな温室はたくさんありますが、当時は、背の高いヤシの木が入るような温室は他になく、「東洋一の水晶宮」 と賞されました。
 構造は鉄骨造りの総ガラス張り。大きな特色は、鉄骨の継ぎ目にリベットを使わず、当時の新技術である電気熔接を採用したことです。これは、できるだけ陽光を室内に取り込むことと、主役の植物が見やすいようにする目的がありました。平成18年に国の重要文化財に指定されています。

東山温室A

 この温室は、建物の美しさも然ることながら、熱帯植物の栽培や展示方法でも全国の手本となりました。昭和40年代に全国で植物園や温室の整備が盛んになりましたが、多くの方々が東山植物園を見学に訪れました。
 しかしながら、約80年を経た現在では老朽化が著しく、適切な保存修理工事が必要となりました。建築の解体撤去に先駆けて、平成25年から植物移植のための準備作業 「根回し」 が始まりました。現在、展示植物約400種は全て移植され、いよいよ建物の解体作業が始まっています。先日、保存修理工事の説明会が現地で開かれました。再び美しい温室や熱帯植物が見られるのは、6年先の平成31年になるそうです。

東山温室マップ



東山温室B

磐田市 旧見付学校

 明治5年 (1872)、明治政府は学校制度を発布した。見付学校は、翌年8月にお寺の施設を仮の校舎として開校した。同時に、町の有力者の協力により新校舎の建設が進められた。新築工事は、名古屋の堂宮棟梁・伊藤平右衛門に委嘱して明治7年に着工し、翌8年 (1872) に完成した。

見付学校マップ

 新築された校舎は、玉石の石積みの上に木造擬洋風の2階建てで、間口12間 (約22m) 奥行5間 (約9m)、屋上に2層の楼が重ねられていた。(当初は4階建てであったが、8年後の明治16年に、3階部分を増築して合計5階建てとなった) 正面には伊豆石の石段が設けられ、玄関はエンタシス様式の飾り柱を配している。
 昭和28年 (1953) に、磐田市立郷土館として開館し、昭和44年には国指定の史跡となった。昭和52年には27か月にもおよぶ解体保存修理が終了し、現在に至っている。館内には、明治期の教科書や卒業証書が展示され、ひとつの部屋には授業風景が模型で再現されている。

見付学校A

金原明善翁生家

 金原明善の名前を見てふと思い出し、50年前に大学で学んだ 「砂防工学」 のノートを探し出してみた。そこにはやはり、治水・治山の偉大な実例として明善の事業が記してあった。彼は天竜川の洪水対策に一生をかけた郷土の偉人だったのである。
 明治元年、“暴れ天竜” の度重なる水害に心を痛めた明善は、民心安定・産業復興のために立ち上がり、全財産を投じて治水事業を完成した。彼は治水事業を行っただけでなく、人を育てることも大切と考え、自家を提供して小学校や水利学校も創設した。

金原A

 さらに、水害を防ぐには下流の治水事業を行うだけでなく、上流の治山事業も必要であるとの思いに達し、山地への植林事業にも乗り出した。明治19年、静岡県磐田郡の官林林相改良に着手したのを手始めに、岐阜県下の植林指導や富士山麓の模範林造成を行うなど、精力的に活動を続けた。
 明善の生まれたこの家は、築後約200年を経て老朽化が著しかったが、平成23年 (2011) に、翁が暮らしていた当時の面影を残しつつ改修された。現在は、偉業を知ることのできる貴重な資料が展示され、一般に公開されている。下の写真で、奥の土蔵は二階建てで家財や米が収蔵され、手前は平屋で重要な書物や書類が保管されていた。いずれも水害を避けるため1mほど高い位置に造られている。

金原マップ

舞坂宿脇本陣

 新居関所を越え、今切渡船場から渡し舟で浜名湖を渡ると舞坂渡船場に到着する。舞坂宿は江戸から数えて30番目の宿駅である。弘化2年 (1845) の資料によれば人口約1200人、戸数は265戸であったという。比較的大きな宿場町である。
 渡船場近くに「茗荷 (みょうが) 屋」と呼ぶ脇本陣がある。元は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成されていたが、現在は書院棟一棟が残されている。旧東海道に脇本陣は他になく、唯一の遺構として、非常に貴重な存在となっている。

舞坂宿A

 平成7年に、復元保存のための解体工事が行なわれた。書院棟の鬼瓦に 「天保九年」 との篦書が発見され、また、床の間落掛材に 「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」 との墨書が見つかったことにより、建築年次は天保9年 (1838) であることが判明した。下の写真は、上湯殿・上段の間・庭園・炊事場である。
 注):地名の「舞坂」は、現在では「舞阪」の字を使用している。

舞坂宿B

二川宿の「旅籠と商家」

 本陣資料館には、本陣に隣接する 「清明屋」 という旅籠屋も公開されている。この建物は、文化14年 (1817)に建てられたもので、主屋・繋ぎの間・奥座敷で構成された旅籠屋建築の様式をよく残している。平成14年より改修工事が行なわれ、間取図の残る江戸時代末期の姿に復元された。入口を入ると上り框があり、草鞋を脱ぐ旅人の姿を再現する人形が展示されていて、往時の様子を見ることができる。狭い土間を奥に進むと奥座敷の手前につるべ井戸がある。

二川宿旅籠E

 本陣や清明屋と道を挟んだ反対側に、間口6間半、奥行6間という堂々たる商家がある。味噌・醤油の醸造業 「西駒屋」 である。切妻造桟瓦葺で街道沿いは格子窓となっている。注目されるのは、非常に丁寧に加工された五角形の二段石積みである。お施主とその意を受けた石工とのこだわりが創り上げた、まさに 「いい仕事」 であろう。明治後期に建てられたもので、現在、国登録有形文化財になっている。

二川宿旅籠F

二川宿の「本陣」

 本陣とは、宿場町で大名が泊まる宿のことである。明治3年の本陣廃止令によりほとんどの建物は取り壊されてしまい、東海道で残っているのはわずか2か所のみにすぎない。ニ川 (ふたがわ) はそのひとつ、邸内に表門・玄関棟・主屋 (しゅおく) ・東土蔵・西土蔵を残す貴重な存在である。昭和63年から改修復元工事を行い、江戸時代末期の姿が再現されている。

二川宿本陣マップ

 平成3年からは、「二川宿本陣資料館」 として開館し、近世交通史や郷土文化などの常設展・企画展を開催している。下の写真は、大名の座る上段の間・そこから眺められる中庭・台所の食器類・かまどである。このほかに風呂や雪隠も展示されていて、往時の大名が行なっていた旅の様子を知ることができる。

二川宿本陣A

世界遺産の村「ホッロークー」

 ブダペストから、東北へ100kmほど行ったところに、世界で始めて 「世界遺産」 に認定された 「ホッロークー」 の村落がある。13世紀、蒙古の攻撃から逃れてきたトルコ系クマン人の末裔パローツ人が住む村である。彼らはハンガリー人の邪魔にならないよう、冬は雪に閉ざされてしまうような、この奥地に定住したのだという。

ホッロークーB

 そのことが独自の文化を育むこととなり、今も個性的な民族衣装や舞踊、陶器や食事などに残されている。建物は木造で、泥と藁に石灰を塗った白壁と赤褐色の屋根瓦が特徴である。入母屋造り風の破風面に、家ごとに異なる模様がついているのも興味深い。
 古民家は60軒ほど保存され、300人ほどが生活している。道路も古風な石張りで、井戸や柵、標識やマンホールにまで景観的配慮が行き届いている。建物の維持・補修に多額の費用が必要であり、むしろ新築する方が安価であるという。ちなみに、「ホッロー」 はカラスのことで、「クー」 というのは石のことである。村の伝説に由来する名前である。

ホッロークーC

赤坂宿「大橋屋(旅籠屋)」

 赤坂宿は、東隣の御油宿とわずか4里 (1.6km) しか離れていない。東海道53次の中で最も短い距離である。赤坂は、幕府の直轄地であり、また、峠の麓にある宿場として大いに賑わったという。享保の時代 (18世紀前半) には、旅籠屋が83軒あった。
 宿場の中ほどに、独特の造りをした格子窓やひさしのある2階建ての旅籠屋が残されている。「大橋屋」 といい、つい最近まで旅館として営業を続けてきたが、残念ながらこの3月に閉鎖された。

赤坂宿A

 間口9間、奥行23間という比較的大きな旅籠である。かの有名な松尾芭蕉や歌川 (安藤) 広重も泊まったという。芭蕉は 「夏の月 御油より出でて 赤坂や」 という句を残している。広重が描いた 『東海道五十三次・赤坂』 は、この大橋屋の中庭を描いたものであるという。
 中へ入ると、そこは旅人が草鞋を脱ぐ見世間であり、黒光りする階段を登ると多くの部屋が並んでいる。江戸時代初期、1649年に創業して以来360年以上の歴史あるたたずまいを、今も感ずることができる。豊川市の文化財に指定されており、来年から一般公開されるという。

赤坂宿マップ

八丁味噌蔵

 「愛知の豆味噌」 といわれるように、この地方 (尾張・三河・美濃・飛騨) は、米麹・麦麹を使わず豆だけでつくる、独特の味噌文化をもっている。その代表格が、岡崎の「八丁味噌」である。その名の由来は、今から600年も昔に、岡崎城から8丁離れた八丁町 (現在は八帖町) で造られ始めたことによる。今でも、お城と矢作川に挟まれた八帖町には、白壁・黒板張りの土蔵 (味噌蔵) の並ぶ見事な蔵屋敷を見ることができる。

八丁味噌蔵A

 八丁味噌は、二夏ニ冬かけてじっくりと熟成される。製法も伝統を守り、吉野杉でつくられた高さ2mの仕込み樽に原料を入れ、その上に重石を円錐状に積み上げるのである。工場の片隅に、樽のための杉板と重石の玉石が保管されていた。

八丁味噌蔵マップ

知立神社の多宝塔

                                             ≪再掲:2014・2・27≫ 
 東海道を往来する参勤交代の諸大名が、必ず立ち寄るという神社がある。東海道三大社に数えられる 「知立神社」 である。別名 「池鯉鮒大明神」 ともいう。第12代景行天皇の御代、日本武尊命が東国平定に向かう際に祈願をしたという、古くから祀られる神社である。
 鳥居をくぐって参道を進むと、右側に柿葺 (こけらぶき) の多宝塔を見ることが出来る。嘉祥3年 (850) 慈覚大師が創建したと伝えられている。お堀に架かる太鼓橋を渡ると桧皮葺 (ひわだぶき)、荘厳な雰囲気をもつ本殿がある。

知立神社マップ

 東海道との分岐点に、道標を兼ねた灯篭が佇んでいる。旅人はこの目印を見て道を曲がり、知立城の前を通ってお参りしたのであろう。蝮 (まむし) よけに効果があるという。街道沿いにはお寺や山車蔵などがあり往時の雰囲気をもつ町であるが、大きな道路により分断されているのが残念である。

知立神社A
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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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