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諏訪大社の御柱

 天下の大祭 「御柱祭」 は、7年に1度、申年と寅年に行なわれます。諏訪大社御宝殿を造営するお祭で、その四隅に御柱を建てるのです。その様子は、毎回テレビ放送などで見ることができますが、たいへんに豪快なもので、特に100mもの急斜面を坂落とす場面はスリルを感じます。事実、怪我をする人もあります。
 左の写真は、上社本宮の 「一の柱」、右の写真は柱を立て起こすシーン(昭和61年朝日新聞社発行の 『週刊朝日百科日本の歴史』 からお借りしました) です。高さ5丈5尺 (約17m) 直径4尺 (1.2m) の樅 (モミ) の木です。山から切倒した後、御柱置場に集められ、そこから数千人の氏子の奉仕により20数kmを曳行されるのです。

御柱A

 このお祭は何時から始まったのでしょう。同じく 『朝日百科』 では、縄文時代から同様な巨木の祭があったと記されています。金沢市のチカモリ遺跡から発掘された柱痕からすると、約8トンもの大木が曳かれて建てられたと考えられるというのです。その様子が挿絵として掲げられています。
 諏訪湖周辺を散策すると、あちこちに御柱を見ることができます。高島城内の護国神社にもありましたし、普通の住宅地の祠にも、その四隅に真新しい柱が立てられていました。諏訪の人たちは、7年に一度の御柱の年になると、先祖伝来の血が騒ぐのだと思います。

御柱B

万治の石仏

 春宮の近く、砥川を100mほど遡ったところに、心温まるような石仏がお座りになっている。伝説によると、春宮に石の大鳥居を造るとき、この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工たちはおそれを感じて仕事を止めてしまったとのこと。
 その夜石工の夢枕に、上原 (茅野市) に良材があると告げられ、そこで見つけた石材で鳥居を完成することができたのだという。石工たちは、この大石に阿弥陀如来を祀って記念とした。万治3年11月1日 (1660) のことである。

石仏C

 この日本人離れしたお顔の仏さまを地元の人たちは大切に守ってきて、地籍も字石仏としている。昭和になって、かの有名な彫刻家・岡本太郎や小説家・新田次郎が絶賛したことから一躍話題となり、雑誌などに紹介されるとともに、訪れる人も多くなった。
 近くには、諏訪湖に注ぎ込む清流・砥川が流れている。石仏の隣に大きな中州があって、赤い橋で渡れるようになっている。この島は、どんなに大水が出ても絶対に流されないので、下社の七不思議に数えられている。

石仏マップ

諏訪大社(下社・春宮)

 秋宮から、さらに1kmほど奥まった砥川のほとりに、春宮が鎮座している。中山道からの入口には立派な石造りの鳥居があり、その右に大きく諏訪大社と刻まれた石柱が立っている。境内は、本宮、秋宮同様に鬱蒼とした樹林で覆われている。
 このあたりの植生は、ケヤキやカツラなど落葉広葉樹とスギ、ヒノキといった針葉樹との混交林である。その点で、シイノキやクスノキなどの常緑広葉樹に覆われる伊勢神宮や熱田神宮とは、景観を大きく異としている。春宮の御神体は杉である。

春宮マップ

 春宮の中心的建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある東西宝殿からなっている。その配置は秋宮と同じであるが、造営者は異なり地元の大工柴宮が請け負っている。幣拝殿は見事な彫刻で飾られているが、これは秋宮の棟梁と腕を競って彫られたものだという。
 下社の祭神は、2月から7月まで春宮に鎮座し、8月1日の御舟祭で秋宮に遷座して半年を経た後、2月1日に春宮に帰座することになっている。

春宮B

諏訪大社(下社・秋宮)

 下社は、上社とは諏訪湖を挟んだ反対側にある。上社本宮の御神体は山 (守屋山) であるが、下社は樹木で、春宮は杉、秋宮はイチイであるという。いずれも本殿を持たず、自然そのものを御神体とする古い神社形態を残している。
 秋宮の社殿は、中央に幣拝殿があり、その左右に片拝殿がある。どちらも安永10年 (1791)、諏訪高島藩主の命により、立川流初代棟梁が造営したものである。幣拝殿は二重楼門造りで、全体に見事な彫刻が施されている。

秋宮C

 左右の片拝殿の前面に、幹肌の白い珍しい樹木が植えられている。銘板が添えられていて、昭和天皇ご天覧の白松(三葉の松)であるとの説明が記されている。枯れ落ちた松の葉は、ほとんどバラバラになってしまうが、ごく稀に3本揃っているものがあり、それを拾うと縁起が良いとのことである。
 社殿の周りは鬱蒼とした樹林で、神楽殿 (下の写真) の横にはケヤキやスギの大木が聳えている。この日は、空が真っ青な晴天で、その下で見事な菊の展覧会が開かれていた。

秋宮D

諏訪大社(上社)

 天下の奇祭 「御柱祭」 で有名な諏訪大社は、長野県の中央にある諏訪湖の湖畔に鎮座している。
我が国で最も古い神社の一つで、信濃国一之宮に位置付けられ、全国1万を超える諏訪神社の総本社でもある。御祭神として、大国主命の御子 「建御名方神 (たけみなかたのかみ) 」 とその妃 「八坂刀売神 (やさかとめのかみ) 」 が祀られている。
 諏訪大社は、諏訪湖を挟んで南の上社と北の下社からなっている。さらに上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。この神社の御社殿は、前宮を除いて本殿はなく、幣殿や拝殿、あるいは両方を兼ねた幣拝殿が建てられている。その多くは、国の重要文化財に指定されている。

諏訪上社マップ

 上社本宮の参道を歩き、その両側に生い茂る樹木を調べてみた。最も目を見張るのはケヤキの大木で、直径2mを超すような古木を何本も見ることができた。その中でも 「二の柱」 近くにある 「大欅」 は境内最古といわれ、樹齢1000年と推定されている。次に目立つのはスギ、ヒノキ、サワラ、モミ、ツガといった針葉樹で、直径5~60cmほどの大木が林立している。
 小さな樹でありながら立派な柵で保護されているのは、「榖の木 (かじのき) 」 である。高島藩主諏訪氏の家紋にも使われ、上社、下社の神紋としてもデザイン化されている植物 (コウゾの仲間) である。

諏訪上社A

飯田市塚原古墳群

 対岸に南アルプスとその手前の伊那山脈を望む、天竜川右岸の河岸段丘に16基の古墳が築かれていた。塚原古墳群という。地名の塚原は、古くから「墓」すなわち「塚」の存在が知られていて、塚のたくさんある「原」であることを示している。
 下の写真は、その中心の「塚原二子塚古墳」で、長さ76mの前方後円墳である。この他に、「鏡塚」や「鎧塚」 など5基の古墳が残されている。そのうちの3基は、長さ50mほどの 「帆立貝型古墳」 という特殊な平面形をしている。

塚原古墳A

 地元の小学校に保管されている馬具などの出土品からみると、造られた年代は、5世紀後半から6世紀の前半ではないかと思われている。この時代、この地の豪族は、馬の生産を通じて中央の政権と深く関わっていたようである。日本全体で見ると、このような狭い山間部に、これほどの古墳文化が花開いていたことは、特異な存在であったと考えられている。
 ソバなどの花が咲く畑の中に、綺麗に草刈された “二子山” があった。周辺には標識やマップの付いた説明版があり、塚の裾にはサルビアの花も植えられていた。

塚原古墳マップ

宮の宿(シーボルト)

                                               ≪再掲:2015・4・10≫
 宮の宿には、参勤交代の大名や伊勢参りの旅人など、多くの人々が宿泊した。松尾芭蕉も名古屋の門人たちと交流するため、たびたび熱田を訪れ、この湊から舟遊びなどを楽しんだという。そのとき「この海に 草鞋(わらんじ)捨てん 笠しぐれ」という句を残している。
 また幕末のドイツ人医師・シーボルトも、文政9年(1826)2月にオランダ使節団に随行して江戸に参府する際と、4月に長崎へ帰る際に宿泊している。このとき、名古屋の本草学者・水谷豊文とその門下生・大河内存真、伊藤圭介は、シーボルトから植物学の教えを請うべく、待ち受けて会見した。そのときの様子を「尾三精華帖」(下の図)に見ることができる。

シーボルト

 シーボルトは帰国後、日本の植物研究の集大成を『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』として出版する。彼が持ち帰った500種類もの植物は、今もその一部がオランダ・ライデン大学の植物園に残されている。ライデンは、運河と緑が美しい町である。ライデン大学の日本庭園には、シーボルトの銅像が建てられている。

シーボルトB

三島熔岩流

  日本列島の周辺では、4枚のプレートが重なり合っている。ユーラシアプレートと北アメリカプレートの間へ楔を打ち込むように、フィリピン海プレートが衝突する先端が伊豆半島である。そのため割れ目となったのがフォッサマグナであり、そこに10万年前に噴出したのが富士山である。
 約1万年前の富士山噴火では、大量の熔岩が流れ出した。南へ流れ出した熔岩は、流動性が高かったので、約40kmも離れた三島まで到達して固まった。その露頭は、楽寿園内のいたるところに見ることができる。

熔岩C

 固まった熔岩の形は、餅状とか塚状、あるいは縄状といった名前で表現されるが、楽寿館の裏手には「縄状」の巨大な熔岩が顔を見せている。岩の表面は苔蒸していて、割れ目には木の根がまつわりついている。右の写真は、カゴノキが熔岩に絡んでいる様子である。三島熔岩は硬い玄武岩であるため、石材としての需要も高かった。園内には、過去に切り出された跡も残っている。
 この貴重な自然は保存のため、熔岩・湧水・実生自然林・景観も含めて、昭和29年に国の「天然記念物及び名勝」に指定された。

熔岩D

円明寺の石鐘

 名古屋の城下町は、武家町・寺社町・町人町がきちんと区画分けされていた。城の南には、碁盤割と呼ばれる町人町があり、そこを取り囲むように武家屋敷が配された。寺社は、大須から熱田にかけての南側と、大曽根方面への東側に集中していた。
 東区泉三丁目に、松嶋山円明寺という真宗大谷派のお寺がある。延宝3年 (1675) に、伊勢の国長島からこの地に移されたという歴史をもつ。本堂は、昭和20年の空襲で焼失したので、今は鉄筋コンクリート造りであるが、門と鐘楼は焼失を免れ、木造のまま残っている。

円明寺マップ

 鐘楼の鐘はと見ると、なんと白い御影石づくりではないか。撞木は吊下げられてはいるが、鐘を突いても音は出ないという。この不思議な鐘の理由が、近くの説明版に語られている。要約すると、「戦時中の金属回収のため、昭和17年に応召(梵鐘の場合は供出といわずに応召といった)された。そのとき代わりに架けられたのが石造りの鐘である。戦争が終わると、元のように銅の鐘を架ける計画が起こったが、住職は「懺悔」のためそのまま残すことを選んだ。」 のだという。

円明寺C

馬籠宿

 馬籠宿は江戸から数えて43番目、木曽にある11宿の中では最も西にある宿場町である。天保14年 (1843) に作られた 「中山道宿村大概帳」 には、村民717人・家屋69棟、本陣1・脇本陣1・旅籠18軒が数えられたと記録されている。
 馬籠峠へと向かう坂道に石畳が敷かれ、両側に家屋が建ち並んでいる。古い家並みが残されているが、現在はお土産屋や食事処となり観光地として繁栄している。かつては長野県木曽郡に属していたが、平成の大合併により岐阜県中津川市に編入されることとなった。

馬籠宿マップ

 宿場の中ほどに島崎藤村の生家跡があり、現在は 「藤村記念館」 になっている。冠木門を入った正面の白壁に、「血のつながるふるさと 心のつながるふるさと 言葉のつながるふるさと」 との藤村の言葉が扁額となって架けられている。
 近くに 「木曽五木」 の展示があった。木曽五木とは、ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ・サワラという5種類の針葉樹を指し、尾張藩が厳しく伐採を禁じたものである。江戸時代初期、城下町の造営や武家屋敷の建設が盛んだったために山が荒廃してしまった。そのことをきっかけに、宝永5年 (1708) に定められた掟である。この厳しい制度により守られたため、今でも木曽には美しい森林が残っている。

馬籠宿C

祈りの石仏

 旧東海道の路傍に、古い石仏を見かけることがよくある。お堂の中に納められているものもあるが、雨風にさらされた裸のものも多い。現代のように新幹線や高速道路のない時代、江戸から上方まで歩く長い旅には多くの難関があったのであろう。途中で病に倒れることもあっただろうし、山賊などに襲われることもあったかもしれない。旅人は、お地蔵様や観音様に旅の安全を祈ったのである。
 仏像の頂上に馬の頭をいただいた馬頭観音は、ヒンズー教の最高神が馬頭に化身して敵を倒したという神話から生まれたもののようである。中部地方の山地の街道によく置かれているのは、馬の背による交通との関係が深いからといわれている。

馬頭観音マップ

 宿場町の入口には普通、治安を守るために木戸が設けられるが、日坂宿では逆川に架かる細い木橋がその役割を果てしていた。「下木戸(しもきど)」 と呼ばれ、その隣に高札が立てられていた。
 その近くの相伝寺というお寺に33体の観音菩薩像がある。遠江には 「三十三観音霊場」 というのがあり、ここはその21番である。今もお祈りをするため、霊場を巡り歩く人々が絶えないという。

馬頭観音G


米沢の雪対策

 先日の大寒波で、日本海側だけでなく太平洋岸にも雪が降った。さらに、100年以上も雪を見たことのない奄美大島にまで積雪があり、島民だけでなく日本中を驚かせた。普段雪のない地方では、わずかな積雪でも交通機関が麻痺するなど大混乱が生ずる。それに比べ、毎冬雪に見舞われる地方では、きちんと雪対策が行なわれている。
 昨年秋、山形県を旅行した。県内でも雪の多い米沢地方では、すでに樹木への雪対策が始まっていた。金沢の兼六園などで見られるようなワラ縄を使った「雪吊り」でなく、丸太や板などによる防護である。右の写真は、まだ製作途中で、冬の前に板を貼るのであろう。

米沢D

 住宅地の道路の側溝には、鉄筋による除雪用の蓋が設置されていた。道路に積もった雪を、側溝に流すための装置である。雪で全てが覆い尽されると、道路も側溝も見分けが付かなくなるのであろう。誤って側溝へ転落し、子どもが流されてしまうという事故への対策である。雪に悩まされる地域の人々の、知恵が考え出した 「土木文化」 だと思った。

米沢マップ

二宮金治郎の像

 最近はあまり見かけなくなったが、かつては多くの小学校に 「二宮金治郎の像」 が設置されていた。幼い少年が、薪 (たきぎ) を背負って歩きながら本を読んでいる姿に、「勤労」 「勉学」 という 「徳」 を表現したものであろう。最近では、このような道徳的な施設を避けるためか、歩きながらの読書は危険であるためか、金治郎の彫像を見ることはほとんどない。

金治郎A

 掛川城の隣に報徳運動の中心施設 「大日本報徳社」 がある。報徳運動とは、明治維新前後の日本近代化黎明期に、二宮尊徳が唱えた報徳思想を普及させるための運動である。尊徳は全国各地の困窮した600余の農村救済に尽力したが、その体験から生まれた考え方である。その柱は、「至誠」、「勤労」、「分度」、「推譲」 であるという。
 この運動は全国に浸透し、多くの団体が結成されたが、静岡県特に掛川地方で活動が盛んであった。その中心施設がここで、大講堂 (上の写真=国重要文化財)、正門 (県文化財)、図書館 (下の写真=県文化財) などが整っている。

金治郎マップ

木原一里塚と袋井宿の茶屋

 「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」 一休さん (一休宗純) の狂歌です。彼特有の皮肉か禅問答なのでしょう。それはともかく・・・新年おめでとうございます。
 今年のブログのスタートも、一里塚から始めたいと思います。磐田市の見付宿と袋井市の袋井宿の間に木原という村があり、そこに江戸から数えて61番目の一里塚がありました。1里は約4kmですから、約240km離れていることになります。東京国立博物館に 「東海道分間延絵図」 が残されており、その木原村の部分に一里塚が描かれています (右図)。左の写真は、復元された一里塚で、元の位置より60mほど西につくられています。

木原宿B

 袋井宿は、他の宿より少し遅れて元和2年 (1616) に開設されました。江戸から27番目の宿ですから、五十三次のちょうど真中に当たります。最近では 「此処はどまん中袋井宿」 などという看板を設置して、観光PRに努めています。宿の東端、川のほとりに 「お茶屋」 がありました。江戸時代の旅人も、足を休め咽喉をうるおすために、このような茶屋に立ち寄ったのでしょう。

木原宿マップ

遠江国分寺跡

 奈良時代の天平13年 (741) に、聖武天皇は国家鎮護のため諸国に国分寺を築かせた。遠江国につくられたのが遠江国分寺である。その場所は、現在の磐田市役所の隣である。東西180m・南北250mもの広大な敷地であったという。
 昭和26年に発掘調査が行なわれ、翌27年には国の特別史跡に指定された。樹林と草地が広がる跡地には、金堂・中門・回廊・築地塀・七重塔などを示す案内板が立っている。

遠江国分寺マップ

 七重塔跡には、15m四方の基壇を示す石積みが整備されている。その真ん中には、塔の中心礎石 (心礎) が顔を見せている。2mほどの自然石で、直径1.7mの円形柱座が刻んである。この上に、塔の中心を貫く 「心柱」 が乗っていた。基壇の東南の隅に、径1.5mほどの隅柱礎石も残されている。この七重塔内には、紫紙金字の 「金光明最勝五経十巻」 が納められていたと推定されている。ちなみに、この地方の国分寺は次の場所にあった。
 三重県: 伊賀国・・・伊賀市  伊勢国・・・鈴鹿市  志摩国・・・志摩市
 愛知県: 尾張国・・・稲沢市  三河国・・・豊川市  
 岐阜県: 美濃国・・・大垣市  飛騨国・・・高山市    
 静岡県: 伊豆国・・・三島市  駿河国・・・不明   遠江国・・・磐田市

遠江国分寺A

乗蓮寺の椎の木と「いも川うどん」記念碑

 少し戻って刈谷の話です。名鉄富士松駅の近くに乗蓮寺というお寺があり、その境内を覆うように大きなシイノキが繁っています。樹齢は約800年と推定され、幹が太くて根元の洞に子どもが10数人も入れたということです。残念ながら洞窟部分は、伊勢湾台風で壊れてしまいました。

刈谷A

 乗蓮寺から少し東へ行った旧東海道沿いに、小さな祠がありました。これは 「いも川うどん」 の記念碑で、説明文が添付してあります。それによれば 「いも川うどん」 とは三河の国・芋川の名物で、江戸時代の紀行文によく登場するとのこと。平打ちの麺で、名古屋のきしめんのルーツであるとの説もあり、東京でいう「ひもかわ」の語源ともいわれています。
 記念碑は、小さな祠が御影石の丸い柱に乗った形で、近くに、これまた小さな灯篭が立っています。石柱をよく見ると、丸太と組み合わせられる形をしており、橋脚の基礎部分ではないかと思われます。

刈谷マップ

知立神社の祭礼

 普通は 「知立まつり」 といい、毎年5月2日と3日の2日間行なわれる。祭りの歴史は古く、江戸時代・承応2年 (1653) から続いているという。5つの町から高さ7m、重さ5tもあるという山車が繰り出される。本祭りと間祭りが1年おきに行なわれ、本祭りには、山車の台上で 「山車文楽」 と 「からくり」 (いずれも国の重要無形民俗文化財) が上演される。

知立神社祭礼A

 山車は、旧東海道を練り歩くが、道幅が狭いので交差点を曲がるのに苦労する。車体のうしろ側を持ち上げ、前輪を軸に直角に回転するのである。このとき、屈強な若者が力限りに持ち上げ、回転が終わると一気にドスンと落とすのである。このパフォーマンスは、祭りのハイライトとなっている。ちなみに車輪は、松の大木を輪切りにしたものである。

知立神社祭礼マップ

3年目(その6)

 「中部」 というのは、どこまでの範囲なのか明快ではありませんが、東海地方のほかにも長野県や北陸3県も含まれるように思います。長野県南部は距離的にも近く、人の交流も多いように感じます。北陸は、この度の新幹線開通により、東京との時間的距離は短くなりましたが、文化的にも経済的にも中部の一員だと思います。ただし、まだ能登半島しか歩いていません。静岡県ほか

3年目(その5)

 三重県は、学生時代に暮らした所であり、今度の修士論文のテーマも伊勢神宮だったこともあって、比較的に多く掲載しました。桑名、亀山、四日市、津、伊勢を歩きましたが、やはり距離のある南部は訪れていません。尾鷲や熊野などにも興味深い「土木文化」がありますので、今後、出かけていきたいと思います。
三重県

3年目(その4)

 岐阜県へは、1年目にはあまり行く機会がなく、掲載記事が少ないので何とかしたいと思っていました。ある本で、大垣に面白いトンネル 「ねじりまんぼ」 というのがあることを知り、訪ねたのをきっかけに、つづけて岐阜市や恵那市の取材散歩をすることができました。しかし、まだ、飛騨方面の紹介ができていません。今後、足を伸ばしてみたいと思います。
岐阜県

3年目(その3)

 つづいて三河地方です。私は東郷町に住んでいますので、三好や刈谷、豊田は生活の範囲内です。境川の河川敷などを自転車で走り、上流や下流の写真を撮ります。また、国道153号線で飯田までよく行きますので、その沿道や少し足を伸ばした町の施設はたくさん掲載しました。ところが、東三河へは、取材目的で足を運ばなければなりませんので、あまりご紹介できていませんでした。ましてや静岡県の記事はほとんど書いていませんので、これから東方面に力を入れていこうと思います。良い情報があったらお知らせください。
三河地区

3年目(その2)

 次は、名古屋市です。会社が昭和区にありますし、仕事の担当が名古屋市内でもありますので、どうしても掲載回数が増えてしまいます。また、これはボランティア活動ですが、100人ほどの仲間と月に1回~2回、街角の清掃活動をしています。活動の後に、カメラを持って、地下鉄1日券で市内を回るのです。市内を区別に並べて見ました。名古屋地区1
名古屋地区2

3年目(その1)

 このブログは、一昨年の2月18日にスタートしました。今日から3年目に入ります。初回の「はじめに」で書きましたように、取材場所の計画性はなく、訪れた土地土地で出会った「土木文化」をご紹介してきました。今までに、139か所の施設の記事を掲載しました。ちょうどいいタイミングですので、これまでの「まとめ・整理」をしてみたいと思います。ブログの画面の中に、橋・水道・庭園といった項目別には整理されていますので、ここでは地域別に一覧表をつくってみようと思います。皆さまが、行楽やドライブのときに訪れる参考になればと思います。
尾張地区

熱田神宮の信長塀

 熱田神宮は、三種の神器の一つ 「草薙御剣 (くさなぎのみつるぎ) 」 を祀る神社である。 「古事記」 によると、日本武尊が東夷平定の途次、叔母であり伊勢神宮の斎王である倭姫命から授けられた剣だという。日本武尊は剣を妃の宮簀媛命に預けたまま西に向かい、伊吹山で病に倒れて伊勢・能褒野で崩じられる。その剣をこの地に祀ったのが熱田神宮の始まりで、約1900年前のことである。
 ご神体が草薙御剣ということもあり、源頼朝や織田信長など歴代の武将たちも崇敬を寄せていた。徳川幕府からも大宮司領として、700石近い朱印領を与えられていたという。また、多くの刀剣が奉納されている。鎌倉時代や桃山時代の名刀などもあり、中には重要文化財に指定されるなど、資料的価値の高いものもある。

熱田神宮A

 織田信長は、桶狭間への出陣の途中で熱田神宮に立ち寄り、勝利祈願をしたという。その功あって戦いに大勝したので、そのお礼として塀を奉納した。永禄3年 (1560) に完成した土塀が、参道の中ほどに残っている。土と石灰を油で練り固め、瓦を多数積み重ねた構造である。京都三十三間堂の太閤塀と西宮神社の大練塀と並んで、日本三大土塀と賞されている。

熱田神宮マップ

松平・高月院

 東照宮を奥へ進んだ山際に、落ち着いた佇まいのお寺がある。南北朝時代の正平22年 (1367)に足助の寛立上人が建立した 「寂静寺」 を、松平初代親氏の時代 (1377) に 「高月院」 と改めたお寺である。松平家の菩提寺となっている。松平9代目の家康によって寺領100石を与えられて以来、将軍家から厚い保護を受けてきた。

高月院マップ

 山門や本堂は、三代将軍・家光により寛永18年 (1641) に建てられたものといわれている。山門に続く土塀や石垣、石段も落ち着いていて、創立した当時の名称「寂静」そのものの雰囲気を醸し出している。最奥の親氏の墓所は、地盤の緩みなどから石垣も歪んでいたが、平成22年から3年間に亘って修理復旧が行われた。
 松平氏館跡 (現在の松平東照宮)、高月院、松平城跡などは 「松平氏遺跡」と して、国の史跡に指定されている。

高月院4枚
 

八幡山古墳と一本松古墳

 名古屋城と熱田神宮を結ぶ熱田台地の東、精進川 (現新堀川) の谷をはさんだ対岸に御器所台地がある。ここには古代から人々が住み着いている。南端の笠寺には弥生時代の見晴台遺跡があり、中ごろの鶴舞には聞天閣貝塚が発見されている。少し時代が下った5世紀には大きな古墳が築かれた。
 鶴舞公園の飛び地・鶴舞小学校の東に、円墳としては県内最大の 「八幡山古墳」 がある。直径82m、高さ10m、周囲は幅10mほどの堀が廻らされている。戦前には墳丘から埴輪が見つかっているが、戦災で失われてしまったという。

八幡山古墳A

 さらに御器所台地の西端、名工大の敷地に 「一本松古墳」 が残っている。全長7~80mの前方後円墳であったともいわれているが、今は直径36m、高さ8mの円墳状である。かつて墳丘の裾を整備した時に、多数の土師質の円筒埴輪が発見された。現在も大学の図書館や名古屋市博物館に保管されている。

八幡山古墳マップ

瑞穂公園ラグビー場

 昭和25年 (1950)、名古屋市を中心に愛知県下7都市において、第5回国民体育大会が開催された。開催のきっかけは、まだ終戦間もない昭和23年ごろ、“荒れ果てた町は殺風景だし、市民の心も荒んでいるので、国体を誘致して元気を出そうじゃないか” と市長や当局者が考えたことに始まる。
 会場は、瑞穂運動場を拡大整備するとともに、金山体育館 (現在、市民ホールのある場所) を新設したり振甫プールを改造して充てることとした。瑞穂公園には、5万人収容のメイン会場たる陸上競技場を整備し、また、3千人規模のスタンドを持つラグビー場を新設することとなった。(平成2年に改築され、現在は1万5千人収容)

瑞穂ラグビー場1

 国内では、東京・秩父の宮ラグビー場や大阪・花園ラグビー場に並ぶ歴史のあるグランドであり、各種の大会が行われている。「全国地区対抗大学ラグビーフットボール大会」 は、瑞穂ラグビー場創設とともに始まり、今年で第64回を数えている。毎年正月2日、4日、6日が開催日となっている。全国レベルの 「トップリーグ」 が開催されるとともに、地元の学生や社会人のラグビーメッカでもある。
 かつて、ラグビーの人気は高く、早・慶・明などの大学対抗戦は国立競技場を満員にするほどであった。ところが、Jリーグが始まったころからサッカー人気に押され、また、“きつい・きたない (泥だらけ) ・ケガがつきもの” といった3Kが若者に嫌われるせいか長く低迷が続いてきた。しかし、2019年 (東京オリンピックの前年) にワールドカップの日本開催が決まっており、再び人気が高まることが期待されている。

瑞穂ラグビー場マップ

年賀状

 新年お目出とうございます。昨年3月にスタートしたこのブログも、もう10か月間連載しています。月に5~7回、これまでに60回更新しました。読んでくださる方もだんだん増えてきて、最近では月に約1000件のアクセスがあります。
 先人の創意工夫や努力により築かれ、地域の方々に守られてきた「土木文化」を、少しでも多く皆さまにご紹介できればと思います。今年もできるだけあちこちに足を運び、ブログの更新を続けますので、ご愛読のほどよろしくお願いいたします。
 ブログ年賀状

定光寺「源敬公(徳川義直)廟」

 尾張初代藩主 「徳川義直」 は家康の9男として、関が原の戦いの年 (1600) に生まれた。義直は大御所・家康のお膝元駿府城で、武芸・学問を嗜む聡明な子供に育ったという。1607年に尾張国清洲藩主となり、1616年には新築 (1610年清洲越し) された名古屋城に入った。
 1650年に没した義直の墓地は、定光寺東北の山上に造営された。1651年に円形の墳墓と石標が完成する。廟域の周囲には瓦葺の土塀を巡らせ、正門中央に 「竜の門」 がある。石敷の参道を進むと焼香殿があり、その後の階段を上がったところに石柵と唐門 (写真) がある。その奥が墳墓になっている。

7定光寺

 この廟は、明人の陳元贇 (ちんげんぴん) が設計したと伝えられており、建物の構成は、儒教に基づく祠堂に倣っている。ここにも、中国や朝鮮の書物に親しみ儒教を尊んだ、義直の教養を見ることができる。江戸時代における中国建築として貴重な存在で、昭和12年に国の重要文化財として指定されている。
 定光寺の山は、ホオノキなどの落葉樹も交ざるが、主としてシイやカシなど照葉樹の森である。しかし、参道や社殿の周辺には、モミジの仲間がたくさん植えられていて、見事な紅葉を見せてくれていた。

定光寺マップ

「土木の日」

 今日、11月18日は 「土木の日」 である。土木学会の前身 「工学会」 の創立が明治12年 (1879) 11月18日であることに因み、昭和62年に制定された。また、「土木学会」 の創立記念日11月24日までの1週間を 「くらしと土木の週間」 と定め、各地で多彩な行事を開催している

土木の日

 「土木」 の文字を分解すると、「十一」 と 「十八」 になることから、工学会の創立もこの日としたのだろうか? 「土木」 とは、道路・上下水道・住宅・公園・街づくりなど、社会資本の整備や蓄積をするための事業である。市民生活のアメニティーを向上し、安全の確保や福祉の促進を行い、豊かで質の高い生活をつくりだすことを目的としている。
 だれもが、家の中に居ても、一歩外へ出ても 「土木施設」 とは身近に触れ合っているはずである。しかしあまりに身近すぎるせいか、なかなか意識的に 「土木」 を考えることがない。 「土木の日」 「くらしと土木の週間」 は、土木技術や土木事業への認識や理解を深めていただくきっかけになればとの思いで制定されたのである。

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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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