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宮の宿(シーボルト)

 宮の宿には、参勤交代の大名や伊勢参りの旅人など、多くの人々が宿泊した。松尾芭蕉も名古屋の門人たちと交流するため、たびたび熱田を訪れ、この湊から舟遊びなどを楽しんだという。そのとき 「この海に 草鞋 (わらんじ) 捨てん 笠しぐれ」 という句を残している。
 また、幕末のドイツ人医師・シーボルトも、文政9年 (1826) 2月にオランダ使節団に随行して江戸に参府する際と、4月に長崎へ帰路する際に宿泊している。このとき、名古屋の本草学者・水谷豊文とその門下生・大河内存真、伊藤圭介は、シーボルトから植物学の教えを請うべく、待ち受けて会見した。そのときの様子を 「尾三精華帖」 (下の図) に見ることができる。

シーボルト

 シーボルトは帰国後、日本の植物研究の集大成を 「フローラ・ヤポニカ (日本植物誌) 」 として出版する。彼が持ち帰った500種類もの植物は、今もその一部がオランダ・ライデン大学の植物園に残されている。ライデンは、運河と緑が美しい町である。ライデン大学の日本庭園には、シーボルトの銅像が建てられていた。

シーボルトB

宮の宿

 熱田神宮の門前町で 「熱田宿」 ともいう。天保14年 (1843) の記録には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒あったという。桑名への海上7里の渡し場があり、大垣までの佐屋路・岐阜までの美濃路の分岐点であり、さらに62万石の城下町名古屋の表口として、街道一の賑わいを見せていた。
 江戸時代に描かれた数々の絵図が残されていて、当時の宿場町の様子を知ることができる。文化3年 (1806) に成立し、文化13年に転写された 「熱田宮全図」 (西尾市岩瀬文庫蔵、下の図はその部分) を見ると、停泊する舟の様子や常夜灯・浜鳥居・浜御殿・建ち並ぶ旅籠の様子がよくわかる。鳥居から真っ直ぐ通る道は、熱田神宮への参道である。

宮の宿5

 現在、古い建物はほとんど残っていないが、宮の渡し公園のすぐ北に古風な建物がある。名古屋市指定建造物 「丹羽家住宅」 である。丹羽家は幕末のころ、伊勢久と称し、脇本陣格の旅籠だった。正面の破風の付いた玄関は、当時の格式の高さを偲ばせている。

宮の宿マップの2

東海道(尾張と三河)

 4月1日は、日本では年度の初め。学校では入学式、会社では入社式が行なわれます。新しい気持ちになって、新しいことに取り組むのは、とても爽やかなことです。このブログも今日から、新しいシリーズ 「東海道沿いの土木文化見てある記」 をスタートさせたいと思います。
 東海道は、江戸時代に定められた5街道のひとつで、江戸日本橋から京の三条大橋までをいいます。その間に53の宿場町があることから 「東海道五十三次」 と呼ばれます。現在は、国道1号線、東名・名神高速道路、東海道本線、東海道新幹線などが通っていますが、まだまだあちこちに古い街道 「旧東海道」 を見ることができます。このシリーズは、これらの道沿いに 「土木文化」 を尋ねようとするものです。
 まず、愛知県、尾張地区と三河地区から始めたいと思います。最初は、再び (このブログのスタートと同じ) 「宮の宿」 から歩き始めます。

宮の宿マップ
      一般社団法人中部地域づくり協会編「東海道さんさくマップ」より転載

東海道「藤川宿」跡

 東海道 「藤川宿」 は、江戸品川から数えて37番目の宿場町である。三河山間部が終わり、西の平野への入口に当たり、中世から交通の要所であった。慶長6年 (1601) に伝馬朱印状が与えられて宿場となったが、規模が小さかったので、山中郷から68戸を移転させて体裁を整えたという。
天保14年 (1843) の 「宿村大概帳」 によれば、家並みは約1km、戸数302,本陣・脇本陣のほかに旅籠36軒が記されている。宿場町の中ほどに、旧脇本陣の跡があり、現在は 「藤川宿資料館」 が建てられている (写真右)。

藤川宿マップ

 宿場の出入口を 「棒鼻」 (棒端とも書く) という。地元に保存されている街道往還図によれば、「宿囲石垣」 と記されている。安藤 (歌川) 広重の 「東海道五十三次」 には、この棒鼻が描かれている。朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ちょうど差しかかった場面である。

藤川宿A

知多市岡田の古い街並

 知多市岡田地区は、江戸時代から昭和20年代まで知多木綿の産地として栄えた町である。今でも、坂道の両側に高い石垣や黒板塀の屋敷、土蔵などを見ることができる。その中でも、一際目立つのが 「知多岡田簡易郵便局」 である。明治35年に造られた建物で、当時としては珍しい洋館風である。懐かしい赤いポストも残されていて、今も現役の郵便局として使われている。昨年、国の登録文化財に指定された。

知多岡田マップ

 その隣の 「手織の里・木綿蔵ちた」 は、明治元年に建てられた木綿蔵を利用している。厚い白漆喰壁と瓦屋根の土蔵造りである。長く突き出た軒の下では木綿の梱包作業が行われたという。中に入ると、昔ながらの機織り機が並んでいて、実演も見せてくれるし、機織り体験をすることもできる。ゆるやかなカーブを描く町並みを歩いていると、どこからか機織りの音や、女子工員たちの声が聞こえてきそうな町である。

知多岡田A

津の常夜灯

 近鉄線 「江戸橋駅」 を降り、三重大学に向かって東へ歩くと、橋の手前に御影石造りの常夜灯がある。橋の名前は津藩主・藤堂氏が参勤交代の折に、ここで見送られたことから 「江戸橋」 という。
 この 「江戸橋常夜灯」 は、伊勢神宮参詣の帰路、京へ向かう 「伊勢別街道」 と名古屋、江戸方面へ向かう 「伊勢街道」 の分れ道 (追分) に造られている。石には、安永6年 (1777) と刻まれており、津市内最古の常夜灯として、市指定の史跡になっている。手前の 「高田本山道」 の道標は、ここから2kmほど北にある真宗高田派本山 「専修寺」 を案内するものである。

津の常夜灯A

 三重大学の正門近く、栗真町屋町にも常夜灯がある。形式は彫りの荒い 「山燈籠」 である。正面に 「両宮常夜灯」 とあり、左に 「五穀成就」、裏面に 「嘉永4年」 (1851) と刻まれている。私は、大学時代の4年間、この近くに下宿していた。

津の常夜灯 マップ

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大井宿枡形

 旧中山道の大井宿は、現在の恵那駅の東、阿木川を渡った辺りである。大井宿は江戸から46番目の宿場町。天宝14年 (1834) には6町半 (約700m) の間に、41軒もの旅籠があったという。町並みを描いた古絵図には、6か所の「枡形」が見て取れる。枡形とは、敵の侵入を防ぐ目的で直角に曲げた角のことで、大井宿では、ほぼこのままの形が残されている。

大井宿マップ

 宿場へ入る少し手前に 「高札」 (下左の写真) が立っていて、幕府が農民や商人を取り締まる基本的なきまりが公示してあった。最初の枡形には延寿院横薬師という寺院がある。2つ目の角には大井宿本陣があったが現在は門と松しか残されていない (下右の写真) 。3番目近くには脇本陣、4番目には市神神社。5番目には、尾張藩の役人が常駐する 「白木番所」 があった。最後の6番目は阿木川を渡る大井橋である。

大井宿本陣・高札

大垣の道標・記念碑

 美濃路は、中山道と東海道を結ぶ街道である。垂井から大垣の城下町を抜け、墨俣から尾張へと入り熱田の宮で東海道に通じていた。 「岐阜町道標」 ①は常夜灯を兼ねた道しるべである。
300mほど南に下った 「本町道標」 ②は、美濃路と竹鼻街道との分岐点に建てられている。 “左江戸道” “右京道” と書かれている。
大垣道標写真集
大垣記念碑写真集
 大垣城のお堀に当たる水門川を自転車で廻ってみた。そこここに由緒のある記念碑が建てられている。 「飯沼慾斎邸跡」 ③は、我が国植物学の創始者飯沼慾斎が、蘭方医として医学に従事していたところである。
 「奥の細道むすびの地」 ④、元禄2年 (1689) 3月27日に江戸深川を出発した芭蕉は、奥州から北陸を経て、この地で旅を終えた。 「蛤の ふたみに別 行秋そ」 、奥の細道むすびの句を残している。

 「大垣宿問屋場跡」 ⑤、宿場において人馬の継立の業務を行ったところが 「問屋場」 である。ここには、問屋役を始め助役の年寄、事務担当の帖付や馬指、人馬指などが詰めていた。
 8代藩主戸田采女正氏廉は、藩士の子弟教育のため天保11年 (1840) 辰之口門外に学問所を創設した。のちに 「到道館」 、さらに改め 「敬教堂」 と称した。その跡地に孔子像と並んで 「大垣藩校敬教堂跡」 ⑥と記した記念碑が建てられている。
大垣記念碑マップ


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関宿の「ばったり」

 宿場町の通り沿い、町屋の犬走りに面白い構造物を見つけた。「ばったり」という。 「揚げ店」 「店棚」 とも書くということから “商品を並べるところ” と思われるが、頑丈な構造を見ると休憩のための腰掛のようにも見える。歩き疲れた旅人に軒先を貸し、休んでもらうための思いやりの施設だったのだろうか。ずいぶん前に、名古屋市西区の岩倉街道近くでも同じものを見たことがある。

関宿ばったりA

 もうひとつ、町角に面白い空地があるのを見つけた。説明書きには 「御馳走場」 と呼ぶとある。東海道を上り下りする大名行列の一行を、関の役人たちが、出迎えたり見送ったりした場所である。
 宿場町を突き抜ける街道は、単に通り抜けるだけの道でなく、町の人々との多様な交流の場であったのだろう。

関宿ばったりマップ2

東海道 関宿

 三重県亀山の近くに、東海道47番目の宿場町 「関宿」 がある。今から1300年以上も昔、壬申の乱 (672) の頃からの 「古代三関」 のひとつ 「伊勢鈴鹿関」 が置かれていた所である。三関とは美濃の 「不破の関」、越前の 「愛発関」(9世紀頃からは近江の逢坂関) のことで、都周辺の人の出入りを見張っていた。
 またここは、東海道の重要な結節点で、東の追分からは伊勢別街道が、西の追分では大和街道が分岐している。この間の約1.8kmが宿場町であるが、江戸後期から明治時代に建てられた町屋が今も200棟以上残っており、国の 「重要伝統的建造物保存地区」 に指定 (昭和59年) されている。また昭和61年には、「日本の道路100選」 にも選ばれている。

関宿B

 宿場の東のはずれ東追分に立派な鳥居が立っている。ここが伊勢神宮への分かれ道で、関西方面からの伊勢神宮参拝者が、これを目印にお伊勢さんへと曲がる角である。この鳥居も桑名と同じように、宇治橋の鳥居の再利用である。こちらは宇治橋の内側、内宮古殿の棟持柱だったヒノキ丸太が使われている。

関宿マップ2

伊勢・五ヶ所街道の剣峠

 伊勢志摩の五ヶ所湾から峠を越えた後、五十鈴川に沿って伊勢神宮の内宮に到る街道がある。三重県道12号線伊勢南勢線、通称 「五ヶ所街道」である。明治23年、地元の懇願により整備された。伊勢神宮をお参りするための信仰の道であり、土地の人々が、海山の幸を伊勢の町に運ぶ生活の道でもあった。

伊勢剣峠マップ

 大正8年に客馬車が運行し始めたが、大正11年には乗合自動車に取って代わられた。今も道幅が狭く、乗用車がすれ違うのにも苦労する。中ほどにある剣峠は標高330m、岩盤を削った掘割になっている。峠の近くに、先の尖った大きな岩が立っている。これが 「剣峠」 の名前の由来だろうか。この辺りにはヤブツバキの純林があるので、別名 「椿峠」 とも呼ぶ。

伊勢剣峠

知立の来迎寺一里塚

 昨年2月にスタートしたこのブログも1年が経過し、これまでに75回の記事を発信しました。内容は、国の 「重要文化財」 や土木学会選奨の 「土木遺産」 といった著名なものから、あまり注目されずに埋もれたものまで、様々な施設を取り上げてきました。ジャンルも建築物や橋梁といった構造的なものから、並木や湿地といった自然的なものまで、多岐にわたっています。
 最近では月に7~800件のアクセスをいただいています。当初の目的の項で書きましたように “地域の皆さんが、身近に土木文化を感じていただければ” と思いますので、さらに続けてまいります。昨年2月19日の最初のブログでは、出発に当たって 「笠寺一里塚」 を取り上げました。2年目のスタートも “一里塚” にしたいと思います。

知立の一里塚A

 知立の来迎寺一里塚は江戸から数えて84番目、その前は安城市の尾崎一里塚、次は刈谷市の刈谷一里塚である。明治以降の歴史の中で失われたり、残っても片側だけという所が多い中で、ここは両側が残る珍しい一里塚である。塚の上に植えられる木はほとんどが榎 (エノキ) であるが、ここは黒松であることもユニークである。          

知立の一里塚マップ

知立の東海道松並木

 関が原の戦いから間もない慶長9年 (1604)、徳川幕府は東海道を含む五街道を整備した。東海道には53の宿場があるが、知立 (昔は池鯉鮒と書いた) は、江戸日本橋から数えて39番目、岡崎宿と鳴海宿との間に位置している。ここでは 「馬の市」 が有名で、歌川広重の浮世絵 「東海道五拾三次」 でも "首夏(陰暦4月)馬市" と題した風景が描かれている。

知立松並木マップ

 東海道には、旅人を日差しや風雨から守るために、道の両側に松の木が植えられた。そのほとんどは、新しい自動車道や建物の整備により失われてしまったが、知立市牛田地区には今も約170本が残されている。戦前までは、昼なお暗いほどの大木が繁っていたが、昭和34年の伊勢湾台風により多くが倒れてしまった。昭和45年に150本ほどの補植が行われたが、その後の手入れもよく、今では立派な並木に育っている。

知立松並木A

清内路村のハナモモ

 長野県の中央アルプス南端に、伊那谷と木曽谷を結ぶ国道256号線が通じている。飯田から清内路を通って南木曽へ行く道路である。この道を4月中旬から5月中旬に走ると、美しい3色咲き分けのハナモモに出会うことができる。「はなもも街道」 と呼ぶ。海抜が500mから1500mほどと差があり、上に行くほど花の時期が遅くなるので、長い期間楽しむことができる。

清内路2

 最初に植え始めたのは清内路村の住民。村を美しくしようとの思いで苗を増やし、道路沿いや庭、畑の土手などに植えていった。その後、賛同する人達が増え、昼神温泉や月川温泉にも名所ができて多くの人を集めている。今では全国にも広まっているという。
 この珍しい品種は、発電王・福沢桃介が導入したものである。ヨーロッパを視察した桃介は、ドイツ・ミュンヘンでこの木を見つけ、3本の苗木を持ち帰った。大正11年のこと。自分の名前の 「桃」 に因んだのだろう、南木曽の別荘に植えて可愛がったという。

ハナモモ マップ

東海道金谷宿の石畳

 徳川家康は、関が原の戦い直後の慶長6年 (1601) に 「五街道」 を制定した。街道には、一里塚や宿場町、伝馬制度などが設けられ、「東海道五十三次」 もその一つとして整備されたのである。  
 静岡県島田市にある金谷宿は、江戸から51里 (約204km)、品川から数えて24番目の宿場町である。23番目の島田宿との間には大井川があり、洪水時の足止めなどのため、どちらも宿泊客で大いに賑わったという。

金谷宿E

 大井川沿岸の金谷宿から西へ向かうと、牧之原の台地に到るが、その間はとても急な坂道である。さらに、土質が粘土質であるので雨のたびに滑りやすくなり、旅人も馬も難儀を極めたという。そこで文久年間 (1800年ころ) に玉石による石畳が整備された。
 その道も近年は、コンクリートやアスファルトに置き換わってしまった。しかし、平成3年、地域の方々の熱意により、その一部が昔のような石畳に整備された。一人一石、71000人の参加により430㎡が復元されたのである。この事業は 「平成の道普請」 と呼ばれている。      

金谷宿E

熊野古道(馬越峠)

 熊野周辺は、日本書紀にも記されている自然崇拝の地であり、熊野古道は、熊野三山 (熊野本宮大社、熊野連玉大社、熊野那智大社) へと通ずる参詣道である。平安時代、宇多法皇 (867~931) が行幸したのが最初という。白河上皇 (1053~1129) が足繁く参詣したころから、京の貴族たちにも流行することとなった。江戸時代には、庶民にとっても伊勢詣と並ぶ人気の参詣道であった。明治になって人々の足は急速に遠のいてしまったが、平成16年の世界遺産登録を契機に、ふたたび、人々の注目を浴びるようになった。

熊野古道Z

 熊野古道は、京や伊勢からいくつかのルートがあるが、伊勢から熊野連玉大社までの道を 「伊勢路」 という。紀伊半島は、大きな山塊が海まで迫っているので、古くから交通ルートは限られている。古道は時代とともに新しい道に置き換わり、今は国道などが走っている。しかし、峠道は開発の波に乗ることがなかったので、今も昔の姿を留めている。 「馬越峠 (まごせとうげ) 」 はそのひとつ、紀伊長島から尾鷲への国道42号線沿いに駐車場があり、そこから古い石畳の道を歩くことができる。

熊野古道Z

熊野古道マップ

笠寺一里塚

 名古屋市南区、笠寺観音の近くに東海道の一里塚が残っている。直径約10mほどの円形の塚で、エノキの大木の根が土の小山を鷲づかみにするような形をしている。現在は名古屋市の街園に位置づけられ、地域の人々の憩いの場となっている。

笠寺一里塚 1

一里塚は、江戸時代に、徳川幕府が主要な街道を改修して、旅の目印となるように築いたものである。一里(約4km)ごとに、道の両側に置かれたものであるが、今日完全な形で残っているものはごく少ないという。その中で笠寺一里塚は、片側ではあるが、ほぼ原型を留める形で残っている。

笠寺一里塚 2

 この大木は、かつて大枝が折れたため、その傷跡が大きな洞(うろ)になっていた。今から20年ほど前に、樹医による診断を受け、太い根の空洞までがモルタルにより修復された。今では治癒が進み、傷跡もずいぶん小さくなり、のびのびと枝を伸ばした樹形になっている。
 この一里塚のもう一つの見所は、塚の表面を覆いつくすヒガンバナである。9月下旬から10月初旬にかけて、地中から突然に花茎を伸ばして真っ赤な花を咲かせるのである。冬の今は、濃い緑色の葉が茂っていた。

笠寺一里塚 マップ


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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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