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岩倉街道の中小田井

 小田井の名は「田水を司る」の意からと言われている。庄内川右岸にある小田井の村々は、かつて河川の氾濫によって大水害にあい、その歴史は水との戦いであった。尾張藩は、名古屋城下の町を守るために、左岸側の堤防を特に堅固にしたからである。
 岩倉街道は、寛文7年(1667)に開通した。枇杷島から岩倉を経て犬山に至る道である。当時、このあたりで庄内川を渡る橋は枇杷島にしかなく、岩倉方面から野菜類を枇杷島の青物市場(慶長19年(1614)ごろ開設)へ運ぶためには必ず通る街道であった。

中小田井マップ

 重い野菜を積んだ荷車を曳いて、新川や庄内川の堤防を上る坂道は大変であったらしく、中小田井で休憩したりお茶を飲んだという。また、味噌や油など生活用品の買い物をしたので、中小田井の街道沿いは賑わいを見せ、商家の立ち並ぶ街が形成された。
 今も、何軒かの古い町屋が残っている。黒い板張りの家や土蔵、中二階のある格子張りの家などである。お米屋さんの店先を覗くと、何とも懐かしい秤(はかり)があり、今も使われているようである。昭和62年に、名古屋市の町並み保存地区に指定された。

中小田井G

松坂城「御城番屋敷」

 本丸の南東にある裏門を出てしばらく行くと、お城番の屋敷が並んでいる。瓦葺の長屋が二棟、東棟が10戸、西棟は9戸、合わせて19戸である。建物は高い槇(マキ)の生垣で囲まれ、現在も住む人々の生活を、観光客の目から守っている。真ん中の小路は景観を配慮して、電柱はなく石畳が施されている。
 西棟の最北の1戸は松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元して一般公開している。建物は5間×5間、いわゆる「田の字」になっており、裏面に角屋が付随して厠などになっている。築後140年を越え、老朽化も進んでいるので、鉄の円柱と鉄線などで補強が行われていた。

城番屋敷マップ

 元々の住民の方が案内員として常駐され、細かく説明してくれた。それによると、“紀州藩主から松坂に遣わされた与力(2~300石取りの藩士)が、家老家の陪臣となるように命ぜられたことに抗議して、安政3年(1856)に脱藩して浪人になった。”
 “その6年後、藩主の直臣として帰参が許され、40石取りの御城番に就いてこの屋敷を与えられた。” のだという。明治になって住民たちは、合資会社「苗秀社」を設立して建物の維持管理に当たってきた。現在は、国の重要文化財に指定されている。

城番屋敷G

松坂城跡

 松坂城は、秀吉の家臣・蒲生氏郷が天正16年(1588)に築城した。松阪の地は伊勢平野の津と伊勢との中間地にあり、奈良・京都方面へ向かう街道の分岐点に当たる。松坂城は、この交通の要所の小高い「四五百森」(よいほのもり)につくられた平山城である。城跡に立つと、松阪の町並みとその向こうに紀伊の山々を望むことができる。
 氏郷が陸奥黒川(今の福島県)に移封された後、何人かの城主が入城した。元和5年(1619)に徳川頼宜が和歌山城主になると、松坂は和歌山藩領となり、18万石を領する城代が置かれていた。この状態は明治になるまで続き、廃藩後の明治14年に松阪公園となって現在に至っている。

松坂城マップ

 城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、三層の天守が聳えていたが正保元年(1644)の台風で倒壊したと伝えられる。その後、天守閣は再建されることはなく、現在は石垣を残すのみである。公園利用者は階段を登り、石垣の上に立つことができるが、全く柵がなく、安全は〝自己責任?”ということになっている。
 表門を入った遠見櫓の近くに、個性的な建物がある。明治43年の皇太子行啓を記念して飯南郡図書館として建てられたものである。入母屋造りの二階建てが左右対称にあり、真ん中は唐破風の玄関である。昭和52年に図書館が移転した後は、松阪市立歴史民俗資料館として使用されている。

松坂城G

季節通信55松阪菊

そらさんぽ天竜峡

 三遠南信自動車道の天竜峡ICから竜江ICが、11月17日に開通した。さっそく翌日の18日に車で走り、天竜峡ICから千代ICまでを往復してみた。千代ICはハーフ・インターチェンジで、天竜峡方面へは登り降りできるが、竜江方面へは行くことができない。
 その1週間前の10日には、天竜峡大橋が完成し渡り初めが行われた。この橋の下部には人の歩ける通路があり「そらさんぽ天竜峡」と名付けられている。幅は2mほど、両側は天井から床までが網状になっており、外の景色がよく見える。天竜峡ICの駐車場から行くことができる。

そらさんぽ天竜峡G

 橋の中間点が少し広くなっていて、天竜川の真上に当たっている。ここからは、大きく蛇行する峡谷やちょうど色づき始めた雑木林を見ることができる。また、JR飯田線の線路や鉄橋も見える。川面に映る影は、スレンダーな形のアーチ橋の姿そのものである。

季節通信54りんご

揖斐川の横山ダム

 木曽三川についての言い伝えに「四刻・八刻・十二刻」というのがある。揖斐川は急流であるので、上流で大雨が降ると四刻(約8時間)で下流が洪水になるとの意味。長良川では16時間、木曽川では24時間かかるということである。(ちなみに欧州のドナウ川では、1週間以上かかる)
 揖斐川は、福井県との県境「冠山」(標高1275m)を源流とし、濃尾平野の西側を流れて伊勢湾に注ぐ。延長121km、流域面積1840平方kmの一級河川である。大垣市を中心とする下流域には、文化・産業面で重要な役割を果たすとともに、たびたび洪水被害をもたらしてきた。

横山ダムマップ

 横山ダムは、治水や水資源に対する地域要請により建設された。昭和26年から調査が始められ、昭和34年に着工、昭和39年に完成した。堤高約80m、堤頂長220mで型式は「中空重力式コンクリートダム」である。発電能力は、最大出力7万kwである。(下左の写真が発電所)
 “中空”というのは大変珍しい形式で、全国3000あるダムの中で13か所しかないという。昭和30年代には貴重であったコンクリートを節約するため、ダム内部に空洞をつくることでコンクリート量を減らす設計になっているのである。(下右の写真がダム中空の内部)
 平成20年、横山ダムの約10km上流に「徳山ダム」が完成した。高さも長さや発電量も2倍近い大型のロックフィルダムである。両ダムは連携しながら、地域の人々を洪水の危険から守っている。

横山ダムG
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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