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佐久間の原田橋
天竜川は、佐久間ダムの下流で大きく逆もどりし、北に向かって流れている。そのV字の部分に、支流の相川が合流している。JR飯田線は下川合駅と中部天竜駅が右岸にあり、国道473号線は左岸を走っている。国道が天竜川を跨ぐのが「原田橋」である。
現在の原田橋は3代目で、令和2年開通の真新しい橋である。橋長284m、幅員は8mの2車線である。初代は大正4年(1914)に架設された木製補剛桁の吊り橋であった。長さ約112m、幅員は2.4m。地元出身の原田氏の寄付によるものである。

昭和31年(1956)、佐久間ダム建設のため資材運搬が必要となり、幅の広い橋に架け替えとなった。2代目は、鉄筋コンクリート補剛桁の吊り橋で、幅は5.5m、長さは約139mである。活荷重は9トンで設計されていた。
この2代目の橋は、平成27年(2015)1月に天竜川右岸で発生した土砂崩れにより落橋してしまった。現地で見ると、山の高い位置から崩落が起こったようである。緑のない地肌は、モルタルや金網で保護されている。古い橋台や親柱の銘板は残されたままになっている。


現在の原田橋は3代目で、令和2年開通の真新しい橋である。橋長284m、幅員は8mの2車線である。初代は大正4年(1914)に架設された木製補剛桁の吊り橋であった。長さ約112m、幅員は2.4m。地元出身の原田氏の寄付によるものである。

昭和31年(1956)、佐久間ダム建設のため資材運搬が必要となり、幅の広い橋に架け替えとなった。2代目は、鉄筋コンクリート補剛桁の吊り橋で、幅は5.5m、長さは約139mである。活荷重は9トンで設計されていた。
この2代目の橋は、平成27年(2015)1月に天竜川右岸で発生した土砂崩れにより落橋してしまった。現地で見ると、山の高い位置から崩落が起こったようである。緑のない地肌は、モルタルや金網で保護されている。古い橋台や親柱の銘板は残されたままになっている。


浦川キャンプ場と滝口の橋
天竜川の支流「相川」は、浦川あたりで大きくU字型に蛇行している。山裾が半島のように相川に向かってせり出している。半島の西側に広い河川敷があり、その中に半月形の島がある。ここはキャンプ場になっていて、そこへ通ずる吊り橋が2本(1号・2号)架かっている。
吊橋は、いずれも人道橋で昭和45(1970)年完成。自転車は通行できるが、バイクは不可である。1号橋は長さ96m、幅員は1.9m、床は板張りである。2号橋は長さ74m、幅は同じく1.9mである。しかし、床面は縞鋼板張りと異なっている。

航空写真を見ると、半島部分の中央に野球場が見える。地域の人たちのスポーツの殿堂であろう。相川の両岸に集落があるので、吊り橋は両側の行き来にも使われる。キャンプ場には広い草地があり、テントを張ったりキャンプファイヤーをするのに使われる。樹林の中に丸太小屋もある。
集落の中央を飯田線が通っている。偶然、鉄橋を渡る電車を撮影することができた。駅構内に貼られている時刻表を見ると、1~2時間に1本なので、これは幸運なことなのだろう。山並みに深い「鞍部」があり、説明看板によれば、ここに中央構造線が走っているという。

吊橋は、いずれも人道橋で昭和45(1970)年完成。自転車は通行できるが、バイクは不可である。1号橋は長さ96m、幅員は1.9m、床は板張りである。2号橋は長さ74m、幅は同じく1.9mである。しかし、床面は縞鋼板張りと異なっている。

航空写真を見ると、半島部分の中央に野球場が見える。地域の人たちのスポーツの殿堂であろう。相川の両岸に集落があるので、吊り橋は両側の行き来にも使われる。キャンプ場には広い草地があり、テントを張ったりキャンプファイヤーをするのに使われる。樹林の中に丸太小屋もある。
集落の中央を飯田線が通っている。偶然、鉄橋を渡る電車を撮影することができた。駅構内に貼られている時刻表を見ると、1~2時間に1本なので、これは幸運なことなのだろう。山並みに深い「鞍部」があり、説明看板によれば、ここに中央構造線が走っているという。

JR飯田線・浦川駅
最近はとんとご無沙汰ですが、飯田線はよく利用しました。妻の実家が温田駅近くにあり、里帰りや夏の避暑のために子供を連れて乗ったのです。その頃は急行が何本かあり、車内販売も廻ってきました。新城から先は山岳地帯なので、トンネルと橋梁の連続です。とにかく景色の良い路線です。
飯田線が開通したのは明治30年、全通したのは昭和12年のことです。起点の豊橋から終点の辰野まで約196km、その間に94の駅があります。住民にとって重要な交通機関なので、各集落に1つの駅ができました。駅と駅の平均距離は2.1kmと短く、市街地の路線並みです。
この路線は連結していたものの、もともとは4つの私鉄に分かれていました。豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鐵道です。天竜川は早くから電源開発が行われたため、その資材を運ぶのに利用されました。第二次大戦中に国有化が図られ、一体的な運営が行われるようになりました。
浦川の町は、合併により浜松市に属し、天竜区佐久間町浦川というのが正式名称です。この集落は、かつては木材生産で活気があり、料理屋・映画館・喫茶店やビリーヤード場までが並んでいたそうです。今は静かな住宅地であり、浦川駅の乗客も1日100人に満たないそうです。

飯田線が開通したのは明治30年、全通したのは昭和12年のことです。起点の豊橋から終点の辰野まで約196km、その間に94の駅があります。住民にとって重要な交通機関なので、各集落に1つの駅ができました。駅と駅の平均距離は2.1kmと短く、市街地の路線並みです。
この路線は連結していたものの、もともとは4つの私鉄に分かれていました。豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鐵道です。天竜川は早くから電源開発が行われたため、その資材を運ぶのに利用されました。第二次大戦中に国有化が図られ、一体的な運営が行われるようになりました。
浦川の町は、合併により浜松市に属し、天竜区佐久間町浦川というのが正式名称です。この集落は、かつては木材生産で活気があり、料理屋・映画館・喫茶店やビリーヤード場までが並んでいたそうです。今は静かな住宅地であり、浦川駅の乗客も1日100人に満たないそうです。

大垣・水門川の橋 その7
26 高 橋: 昭和36年(1961)・・・26の橋の最後。県道18号・大垣~一宮線に架かっている。
橋の中央に芭蕉の俳句が掲げられている。

今回は、水門川をたどって26の橋を訪ね歩いた。大垣にはもう一本の散歩道がある。松尾芭蕉の句碑のある道で、やはり駅近くの牛屋橋を起点に、終点も同じ高橋である。
高橋は、芭蕉の「奥の細道」むすびの地である。元禄2年(1689)、門人・河合曾良を伴って江戸を出発した。東北・北陸を経て、大垣のこの地で俳諧・紀行の旅を終える。150日間、600里(2400km)の長旅であった。
芭蕉はこの後、「伊勢の遷宮をおがまんとまた舟に乗り」、船町・住吉の湊から水門川を桑名まで下ったのである。奥の細道むすびの句は「蛤のふたみにわかれて行く秋ぞ」である。

橋の中央に芭蕉の俳句が掲げられている。

今回は、水門川をたどって26の橋を訪ね歩いた。大垣にはもう一本の散歩道がある。松尾芭蕉の句碑のある道で、やはり駅近くの牛屋橋を起点に、終点も同じ高橋である。
高橋は、芭蕉の「奥の細道」むすびの地である。元禄2年(1689)、門人・河合曾良を伴って江戸を出発した。東北・北陸を経て、大垣のこの地で俳諧・紀行の旅を終える。150日間、600里(2400km)の長旅であった。
芭蕉はこの後、「伊勢の遷宮をおがまんとまた舟に乗り」、船町・住吉の湊から水門川を桑名まで下ったのである。奥の細道むすびの句は「蛤のふたみにわかれて行く秋ぞ」である。
